| イルカは翌日も第弐図書室に脚を運んだ。翌々日も――。 けれどほんの小一時間で本と向き合うのはやめてしまう。巡回の月輝とはち合わさぬためだ。調べているものが何か知られた羞恥、それから嘘の理由を吐いた後ろめたさもありこれまでのように気軽な会話を交わしにくい。夕日紅にしたように個人的事情を晒し、協力を求めるほど親しくないのである。顔見知りになり八年ほど経ていても、年齢差と職務違いのせいか私生活を語る間柄になるきっかけは生まれなかったし、同じ中忍でありながら一度も任務を共にしたことがない。 通い詰めて五日目に収穫があった。変形型の印が何を表すのか知れた。カカシが口走った動物、言葉通り「狸」である。十二支外は特異で使われるのは主に呪詛系らしい。 (……狸の血を用いて心の臓を滅す? 暗殺だなこりゃ。こっちは……なに、干した肝を擂り粉末化したのちに……げぇっ、気色わりー。……幻術系ねーなぁ) つまり獣の資料でわかったのは印の名のみ。イルカは広げた本を戻してから、連日通り過ぎるだけだった棚の前に向かった。しかたなく。 刻は日暮れ前なので、閲覧机に座る者も書棚を物色する者も多い。特にイルカに気を向ける者はおらぬだろうに、他人の視線が気になった。しかしこれは自意識過剰に過ぎない。みな自分の任地の事前調査で忙しく、また誰が何処の何の資料を手にしようが、細かに詮索せぬのは礼儀である。 そういう意味ではイルカのレポート用紙を覗いた月輝は、礼を欠いていた。いやむしろ不躾だったのは自分の方かとイルカは苦笑する。色事に関わる術を尋ねられ、彼も少なからず退いただろう。結果的にヒントらしきものをくれてはいたが――。 それとも説明が憚れたのか。 イルカは苦い思いが閉じこめてある一角に立った。できれば近寄りたくなかった表紙の並びに指を彷徨わせ、選んだ一冊を思い切って引き出したがとてもその場で開く気にはなれない。適当に選んだ二冊と重ね閲覧机に運ぶ。人から距離を取るため一番隅で北の角。あの晩と同じ、北風が強ければ隙間風が当たる位置だった。 索引を開き、単語を拾う。 (幻術、狸、月、幻、獣、満月……) 探す言葉に当たらぬのに、見たくもない文字は目に入る。隠語の羅列はイルカのリアルな記憶を掘り返し、神経を逆撫でた。 紙面にのった右手指の上を、他人の指が這うのが視えてくる。長い指だ。皮膚が白い。焦れるほど丁寧に、嫌味なほど丁寧に自分を辿った男の指だ。 イルカは今ある筈のないものを視覚から払おうと乱雑に本の頁を捲った。記憶の残像は即座に消えたが、そうして眼に飛び込んできたのは二つ巴の図。雄同士の口淫だ。慌てふためき次の頁を手繰ると、男が男を様々な体位で貫いていた。視覚は瞬間的に、組み敷く側の男をカカシに置き換えていた。 怖気に似た戦慄が走る。長くは直視できずに閉じようとした。けれど書物の縁にかけられた手は脳の指令を無視して金縛りにでもあったように動かない。呪いの如き絵図を椅子から立ち上がることでやっと振り切った。要らぬ力で閉じた表紙は不躾な音を立て微かに埃を舞いあげた。 足早に図書室を出たイルカを特に見咎めた者も独りもいなかったろう。それでも誰かの視線に追われているような気がして歩く速度を速め、一目散にアカデミーを出た。ありえぬ気配から逃げるように校舎の裏手にまわる。学舎に添い西に向かう。通勤鞄が躯の横で弾み腰骨を打つ。雑草がまばらに這う砂利道を走り続け、守衛達の長細い宿舎の前に着いた。 カーテンもかけない窓から灯りが洩れている部屋、ひっそりと静まり返って物音もしない部屋、ドア前に酒の空き瓶が積まれている部屋、テレビの音が流れ出てくる部屋。四つ、五つと玄関ドアを過ぎ、九番目の表札に月輝の名を見た。 中に人気がないのを知ると、イルカの肩は落ちた。念のためにドアを叩くと、八番目の部屋から隣人の応えがあった。 「月輝ならいねーよ。外だ」 イルカは外と言われて某かの任務を割り当てられたのだと悟った。隣室の者にどうも、と礼を言い、踵を返した。此処に来るまでに用意していたセリフを胸の内側に張り付けたまま。 ――探したけれど見つかりませんでした。 思いあまった末の、月輝につこうとしていた二つ目の嘘だ。調べようにもあの手の書物は直視に堪えない。いい大人がなにを寝惚けたことをぬかすのだと笑われるだろう。だが真実は誰にも言えない。言葉にするより以前にそれは、思考の中で並べることさえ禁忌だ。 少年時代に皆と同じく煩悩を解放できなかったのも、友人達の猥談に易く入れぬのも、カカシに友人でいて欲しいのも、共通の理由が秘められている。結果、できあがったのは晩生で朴念仁というレッテルを貼られた独身男。自分はそんな聖人ではないと語るのは億劫で、ではどのように俗なのかと聞かれたら口が裂けても説けはしない。嘘は嘘を覆い幾重にも自我を上塗っていた。 イルカは来た道をのろのろと戻った。 その日からイルカは仕事の帰り、守衛の宿舎に必ず寄るようになった。しかし頼る男はなかなか住まいに帰らない。幻術を解く手段が掴めぬまま焦る日々が矢のように過ぎた。 日が暮れるとイルカは月の満ち加減を毎夜確かめた。一時は細った三日月が再びぐんぐん太っていく。その膨れていく過程を鬱々と見守った。 明日は満月になろうという前日に、カカシの帰還を知った。火影邸ですれ違ったのである。 カカシは報告に赴いたあとなのか、ちょうど正面の扉から出てきた。任務の疲れか猫背は常よりまるかった。唯一晒された右目は落ち窪み、全身から血臭が漂っていた。それでもカカシ自身の負傷はないようで、足取りは飄々と軽い。イルカは入れ違いに入ろうとした扉の前で、一応の会釈はした。言葉のない挨拶に対し、カカシがあからさまについた溜息が耳を突いた。不快を示したいのはむしろ自分の方だ。イルカは反射的にカカシの片目だけ覗く面を睨み付けていた。 きつい視線をカカシは顎を上向け、見下ろす形で笑って受けとめた。待機所で別れたあの時のまま、開き直りを伴う自棄的な笑みだった。 |