| ひと月ぶりに満月がのぼる夜、カカシは日暮れになるまでの数刻をひどくのろく感じていた。時間は誰の身にも等しく過ぎるはずなのに。 床に胡座をかいて冷や酒を舐めながら、気持ちは浮いては沈み、沈んでは浮いた。イルカは訪ねてくるだろうか。こないだろうか。 昨日すれ違ったイルカはきつい眼を向けてきた。怒っているのがありありとわかり、身体の神経という神経がキリキリと抓られる思いがした。任務前にイルカに突きつけた始まりの宣告とは裏腹に、現実では二人の関係はもう終ったのだと悟る。優しい言葉も心地の良い笑顔も、本当の彼からはもう二度と得られない。 それでも、どれだけイルカの怒りが根深かろうが狸の弁が確かなら、明日の朝月が太陽に代わるまではイルカは自分だけのものだ。 自信に満ちた中年男のにやけた面を回想する。所詮他人事。面白がられているのが癪に触る。礼より憎まれ口を浴びせたいところだが、狸男は留守だった。 溜まった埃は窓から追い出した。床も磨いたしベッドのシーツも換えた。自分の汚れはそれこそ念入りに落とした。いつイルカがドアの前に立ってもいいように。 窓の外が次第に陰る。薄闇が墨を塗ったような夜へと変わるその前に、白い円状の恒星は冷たく感じるほど白々とした光を地上に注ぎ始めていた。 イルカは帰宅するなり文机で筆を走らせた。手紙を書いた。自分宛だ。 ――俺は解けない幻術にかけられている。あの人の恋人なんて嘘だ。はめられているだけだ。その気持ちは俺の本心じゃない。俺はそんなこと望んじゃいない。敬いこそすれあの人とそんな関係になりたくなんかない。頼むからカカシさんの家には行かないでくれ。 あとは何と書いてよいやら筆が止まる。こんなことをしても無駄かもしれない。自筆の走り書きをなんの冗談かと、もう片方の自分は首を捻るだけだろう。けれども何かせずにはいられなかったのだ。 帰路の間に背後から迫っていた夕闇は、自然の理通りに満月を連れてこようとしていた。薄い輪郭が次第に濃くなり強い光を下界に降らす。早々に引いたカーテンが風もないのに揺れたような気がした。錯覚か、月光を通す窓ガラスが振動しているようにも見えた。 イルカはありえぬ現象にギョッとなり、墨のついた筆を取り落とした。パタリと落ちた毛筆が書面の文字を斜めに汚す。カーテンの布地の隙間から、白い光がじわじわとイルカに迫ってくる。 イルカは跳ね退いた。なんとかしないと。自分を家の中に留めねば。 押入れから荒縄を引き出していた。両の足首にきつく巻き付けた。茶の間と寝室の間の柱に縄の端を渡しグルグル巻きにして結び目をつくる。余った部分を左手首に巻き付けまた柱に渡す。咄嗟にとった手段はだが身体を繋ぎ止めるには至らなかった。 自分のしていることの意味が、既にわからなくなっていたのだ。 粗雑に縛られた足首で素肌が擦れてヒリヒリした。手首も紅く筋がついている。何の余興か。縄抜けの授業の練習か。そんな予定はあっただろうか。 絡まる縄の結び目を訝りつつ外し終えると、綺麗に纏めて押入れにしまった。懐から懐中時計を取り出し、恋人の顔を浮かべて頬を染めた。今から会いに行っても良いだろうかと。 随分カカシに会っていないような気がする。彼は少し長めの任務に出ていたのだ。昨日顔を見た。すれ違っただけで、ろくな挨拶をしなかった。本当は駆け寄り手を取って、お疲れさまでした、と言いたかった。 なぜ自分はそうしなかったのか。カカシは笑っていたが疲れもあるのか覗ける眉と右眼は表情がかたかった。もしや気分を害しただろうか。 そう思うと、いてもたってもいられない。少し前にも言い争いをしたような気がするが、何が原因で喧嘩をしたのか記憶が曖昧で思い出すことができない。たぶん些細でつまらぬことだったのだろう。 出かけるためにベストに袖を通していたら、文机の自筆が目に入った。ざっと眼を通して首を傾げずにいられなかった。自分が自分に宛てて書いたような文面だ。寝惚けてでもいたのか、おかしな内容だ。そしてこれは書き損じか、紙面の真ん中に筆が倒れたままになっていて、文字は斜めに両断されている。 イルカは筆を筆立てに戻した。紙面は机の脇のごみ箱に捨てた。それからすぐ玄関から飛び出していた。 疎らになった人通りの中をカカシの家まで一目散に駆けた。空の月は巨大な外灯のように道筋を明るく照らしていた。全速力でと思うのに夢の中にいるように足元がフワフワとして、地面ではなく手応えのない綿の上を走っているような心地だ。周りの景色は後ろに飛ぶのに、いっこうに前に進んでいる気がしない。カカシの家までの距離がやけに遠い。こんな感覚は恋に浮かれるゆえの錯覚だ。その自覚はあるのに下肢の浮遊感と焦れったい距離感は、カカシの自宅に着くまで治らなかった。 イルカが呼び鈴を押す前にドアは内側から開いた。施錠を解いた音がしなかった。それでカカシは自分が来るのを待っていてくれたのだと知り、嬉しくて言葉が出ない。 イルカは何の躊躇もなくカカシの胸に飛び込んだ。カカシの腕の片方が背にまわり片方が腰を捉えてくる。優しくだが強い力で引き寄せられ気絶しそうな歓喜を覚えた。後ろでドアが締まり身体は前へと重心が傾いていく。引かれるままカカシに被さると下から唇を押しつけられた。徐々に深く合わされていく口付けは火を灯されたように熱い。粘膜を粘膜で貪られ上がり端の床で抱き合ううちに、イルカは身体の中心からせりあがってくるものに堪えられなくなった。 カカシに欲情する自分をカカシに鎮めて欲しい。思考がそれだけでいっぱいになる。自分の内面に潜む性欲が生々しく頭をもたげ、その勢いはせつない喘ぎとなりカカシに濡らされた口内から唾液と共にカカシに向けてこぼれていく。自然押しつけている股間の硬さに、同じように屹立した恋人の雄芯が当たる。擦れ合う局所は膨張していくばかりで痛いようだった。 もつれ合いながらベッドに行き倒れ込む。激情は二本の腕でどんなに縋ろうと、とても伝えたりぬ気がして下肢まで絡めていった。布の上から背中や胸を撫でるカカシの掌の感触も、尻の狭間を行き来する指の動きも、煽られているというより宥められているようなゆっくりとした穏やかさでもどかしい。直の愛撫がどんなに良いものか、知ってしまったからだろう。カカシは初めての時も急かさず緊張を解いてくれたのだった。 けれど今日はもう待ちきれない。産毛が逆立ち気が飛ぶほどの快が早く欲しい。すぐにでも素肌に触れて欲しく、だが恥ずかしくてはっきり口にしては言えない。言葉が喉に絡まり息が苦しくなった。 イルカは我慢がならずカカシと身体を入れ替え、カカシの腰に跨った。上衣をたくしあげていくと、鍛えた胸の筋肉の層が指の下で呼吸に合わせ上下している。繰り返される隆起に掌を這わせ、窪んだ臍部に触れる。指は彷徨いながらカカシの下衣にひっかかる。ゆっくり下に向けて引くとカカシが少し腰を浮かしてくれたせいだろう、布地は難なくずれ猛々しい屹立が現れた。雄の象徴を目の当たりにして淫蕩な目眩に襲われる。視覚で自分の前が潤っていく。体を駆ける血が沸騰しそうだ。 欲に突き動かされイルカは背を丸め、カカシ自身に唇を寄せた。顔を覆わぬカカシの素顔が眼を見開くのを視界の隅に見た。耳は愛する人の深い嘆息を聞いた。頭にある知識は微々たるもので巧くできる自信はない。 それでもしたい。自分がどれだけカカシと抱き合いたいか、どんなに愛しているか、そうすることで彼に知って欲しかった。 |