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満月の夜だけの-8-



 イルカは自分の怒りをカカシに知らしめたくて茶番を組み立てた。夕日紅の手を借りこらしめる。それで終る筈だった。
 しかし終わるどころか、始まったばかりとカカシに宣言された。
 そういえばカカシは術をかけながらゴチャゴチャ言っていたように思う。死なねば解けないとか。狸とか。
「……狸ってなんだよ?」 
 わからない。幻術と何の関係があるのだろう。
 イルカは生涯続くという術に身震いしながら上忍待機所をあとにした。
(馬鹿げてやがるっ、こんな術。なんとかして解かないと――)
 通常の幻術ならば、解の印で大抵は解ける。術具を用いたものならそれを破壊する。或いは術者の死により解けるものもある。術にうち勝つには幻に惑わされぬための強固な精神力も必要だが、イルカはそれには自信がなくもない。投げ込まれた状況下で平易を保てるなら、現実と虚構は識別できる。
 だがカカシにかけられた術は、イルカの知るどの幻術とも異なるようだった。まずかけられた後に、これは幻術という自覚はまったくなかった。心底カカシを愛しいと思い込み、通常の自分の迷いや葛藤を不思議がる偽の自分が現実の方を悉く否定した。術が発動すれば、自身は保てない。きっとカカシの言うとおり、ひと月経ち月が満ちれば本来の自我は失せ、もう一人の自分が心身の主導権を握ってしまう。そうして恋人としてカカシの前に立つのだろう。
 イルカは上忍待機所を出てから受付所に行くまでの連絡通路を歩きながら、息を整え全身にチャクラを巡らしてから、一瞬立ち止まり、最初の印を組んだ。
解っ、と唱えると同時に循環するチャクラが鳩尾を起点とし四肢の先へ、頭部の毛先までに行き渡る。
 此処で本来ならば目の前の幻は消え失せ、現の感覚を取り戻すことができる。でもイルカの視界には初めから幻は見えぬので、果たして術が解けたのか、解けていないのか、確認することができない。
 手応えの無い解の印は、イルカに憤懣をもたらしだけである。この程度で解ける術ならぱ、カカシがあれほど自信満々に始まりを告げるわけがないだろう。
 では術具の破壊、と考えて、カカシが印を組み行を唱える以外、何も持っていなかったことを思い出す。昨夜は満月なので月だけは煌々と明るい印象が眼に焼き付いているが、それだけだった。例えば月光と何らかの関係があるとしても、天の月の破壊など物理的に人には不可能だ。
 残る手段は術者の命を絶つ方法である。が、イルカに殺意はない。もともと友人としての好意はあった男が始めた強引な独走に、着いていけないだけ。落胆も怒りもつのるが、そんな風には憎めない。
 その前にカカシの寝首を掻こうにも力の差は歴然である。中忍のイルカは上忍のカカシを倒せぬだろう。そしてカカシに挑めば同胞殺し。
(……論外だ)
 殺したいほど恨めれば、預金はたいて他里の忍に暗殺依頼だろう。けれどイルカは根が人好しのせいか、そこまで他人を憎悪したことがなく、カカシの所行に対してもまた例外ではなかった。
 そして空論といえど掠めた殺傷の仮定は、はなはだ滑稽である。有名になりすぎたカカシは、他里の忍に命を狙われることが多い。誰があらためて依頼せずとも、カカシの息の根を止めたい輩は里を一歩出ればゴロゴロいる。
 イルカはカカシの帰還が遅れているとか、連絡が絶えたとか、その手の情報を小耳に挟むといつも臓腑が縮む思いがした。名をあげる目的でカカシと出くわせば勝負を挑んでくる輩が疎ましく、そういう時は決まってその任務に出る前の、カカシの言葉や仕草、表情の数々を反芻した。あれがカカシと過ごした最後の時間であったかもしれないと。
 こじれなければ良い友人として、長く付き合っていきたい人だったのだ。
 それでもイルカは今回のカカシのしたことが猛烈に嫌だ。一月にたった一夜であろうが数時間であろうが、本来の意志を無視され、心身を委ねるなどまっぴらごめん。許せない。
 こんな関係でカカシは満足か。いいのだろうか。
(いいはずねえだろうっ)
 憤りを抱えたまま受付所に戻り、イルカは鬱屈したままその日の勤務を終えた。すぐに帰宅できるよう通勤鞄を持ち、アカデミーの北端にある第弐図書室に向かった。
 此処には生徒ら向けの書物はなく、中忍以上が任務の必要に応じ閲覧できる資料ばかりが置いてある。自里、他里で使われている一般的な術から特殊な術の解説書。他国の地形図、他里の忍のリスト、他国の新聞、情報誌。
 年齢制限ならぬ階級による制限付きは、閨房術に関する指南書も置いてあるせいだ。中忍試験に合格したばかりの下忍達は、此処にそんな資料があると誰ともなく同性の先輩等に教えられ、特に男どもは学習熱心を装い通い詰める者もいる。閨の技に関する書物には御丁寧に、睦言の例の数々まで載っている。画付きで交接の体位まであれば、中忍に成り立ての初な少年達には、町中で売られている成人指定の猥褻本とほとんど変わりない役割を果たすのだった。
 如何にも任務前の事前調査を装い、畏まった顔で第弐図書室に入り浸り、図書室を出てからは一番近いトイレに駆け込み動揺した逸物を個室で解放する輩は、イルカの卒業させた生徒の中にも今でもいるかもしれない。くだらぬ習わしほど絶えず続くものである。
 イルカも若かかりし日に同期の者達と、資料の絵図を見た。母親以外の女性の裸体を見るのは絵画とはいえ初めてで卒倒しそうなりながら。
 男女がどのように結合するかも此処の資料で初めて知った。過激な絵図と文書に性的衝動は起きず、それよりも身体を道具と化す閨房術にひどい嫌悪を覚えたものだ。中には男女の交わりの他に、同性愛者の女性と女性、男性と男性が、どのようにして性欲を高めあい、どのようにして性器を慰め合うか、特殊な嗜好の持ち主を陥落させるためのものまであった。イルカの股間は膨張するどころか萎縮した。
 それなのに。 
 興味本位に閨房術の指南書を見たい輩に、イルカは度々此処に誘われた。断れずに諾々と着いてきたのは、資料の中の何かがイルカの琴線に触れてしまうからだった。眼をそらしたいのに、そらしきれないもの。唾棄したいのに誹り切れぬもの。
――俺、もー駄目。
 小声で耳打ちして不浄に立つ同僚は、資料を開いたまま慌てて駆け出すのが常だった。イルカは出しっぱなしの厚い本を閉じ、棚に戻すという役割をいつの間にか担わせされていた。そうしてトイレの前で友人達が出てくるのを待った。
 自慰に走らぬイルカを同輩達は、お子さまとか、堅いとか、無理をしているのではないかと笑ったものだ。
 しかしそんな十代半ばの青臭い行動が長々と続くことはない。中忍になり半年も経てば、給金も徐々にあがる。図書室で絵図など眺めずとも、実際の生身の性体験を金で買うようになれるのだった。実体験の味を覚えた少年達は、自然に閨房術の資料棚から遠ざかる。
 任務の如何によっては必須となる閨の技術は、特に科目として設けられていない。そんなものはそれなりの年になれば、覚えるのが当然であるかのように。
 そのためにも里内には色街が存在するのだろう。如何なる性癖の標的を前にしても、怖じけぬ技を得るための。
 イルカは此処を訪れると意識して避け、近寄ることはなかった資料で埋められた棚を、今は冷静である自覚を持って一瞥し、通り過ぎた。
 目的は幻術に関連する資料である。
 まずはカカシの組んだ印の並びを思い出せるだけ思い出し、レポート用紙に書き出した。子から始まり丑、寅、卯、午、未、それから戌と亥の印の組み合わせ。そして見間違いかも知れぬが、他は四つ足動物ばかりの印が繰り返される中で、辰なのか巳なのか曖昧な指の組み方があった。その部分は文字ではなく絵柄にして書き表した。
 同じものが資料にないだろうか。同じでなくても、似たようなものでもいい。協力してもらった幻術使いの夕日紅も、満月に関連したあの術について知識はなかった。紅とはカカシと同様、子供達がらみで知り合った上忍で、面倒見の良いところが姉のような存在だが、そうそう彼女にも迷惑はかけられない。自分で術を解く方法を探したかった。
 閲覧のための六人掛けの大きな机は、棚から引き出した冊子や巻物で間もなくいっぱいになった。幻術の資料の中に、月光に関する術は少なかった。少ない中に類似すると思しき術もない。幻術以外の本も当たりをつけ、月の項を見つけては付箋を挟み積み上げていくうちに、イルカより前から調べ物をしていた幾人かは、みな帰ってしまった。
 そのうち形ばかりの司書も帰り支度を始めてしまう。司書がいようがいまいが此処にある資料は持ち出し禁止。それぞれに門外不出の封印は施されている。禁術の類は皆火影邸に管理されているので、二十四時間の警備は不要なのである。
 イルカは一人きりになっても一角だけ灯りをつけ、某かヒントになるものが見つかるまではと頑張っていた。気が付けば足腰は冷え、肩が凝っている。秋の気配は床から這い上がり、火種がいるほどではないが、北側に面した部屋の窓からは、隙間風が入るようで背中も薄ら寒くなってきた。
 冷えは空腹からも来るのだろう。昼飯はあまり喉を通らなかった。そういや今朝は朝食も食べずに出勤してきた。食生活は、あの媚薬の件以来、乱れ続けたままだ。
 紙面にカカシの顔が浮かぶ。あれからカカシは任務に出たらしい。午前中は受付所にいた五代目が、茶の国から書簡を受け取ってから執務室にこもってしまい、間もなくカカシが呼ばれたのをイルカは知っている。一緒に待機していた紅が、わざわざ耳打ちに来たのだ。
――ひと月以上帰れないみたいよ、安心して。
 安心などできない。ひと月目をやり過ごしても、次の二月目はカカシの思う壺だ。それに満月の夜にカカシが里にいないとすると、カカシの恋人と全身全霊で主張するもう一人のうみのイルカはどんな夜を過ごすのか。悶々とカカシを思い、一睡もできないか。まさか任務先まで押し掛けたりはしないだろうなと思い、行き先もわからぬのに追えないだろうと頭を振った。 今朝目覚めた時には正気にかえったことを考えれば、タイムリミットはおそらく地上を照らす月の天下が太陽に変わるまで。そんな短い間にカカシを探せまい。
 集中が途切れたせいか、ひどい眼の疲れを覚えてイルカは瞼を揉んだ。今日は限界か。
 イルカは立ち上がり大きく伸びをしてから、収穫のなかった書物を片付け始めた。本は付箋を外し、広げた巻物はきっちり巻いていく。ようやく半分はもとの位置に戻した頃、図書室の出入り口が開閉する音がした。
 イルカは懐中時計を懐から取り出した。今の時刻にこんな場所に来る人物は予想がついた。
「おや、イルカ先生か。また残業か」
 木訥とした声。横にやや広い体躯。手には懐中電灯を持ったアカデミーの守衛の一人、月輝だ。垂れた眉と眼をそれ以上に垂らし、お疲れさんと笑う。細い眼は一本の線のようだ。北側にしかない窓の施錠をゆっくりと確認しながら、だんだんとイルカがいる場所に近付いてきた。すぐ背後の窓枠を揺すり、隙間風が入るなぁと呟いた。
「その手は怪我か」
 いきなり尋ねられ、左よりほんの僅かに腫れた右の拳を、イルカは月輝に背を向けたまま反射的に左手で覆った。しかし彼はそれ以上の詳細は訊ねてこない。順に窓を渡り歩いて離れていく。
 イルカは冗談めかして誤魔化す気力はなく、そうかと言って上忍を殴りましたと正直に言う理由もないので答えずにいた。すると月輝は、図書室の出口付近ではたと立ち止まり、昨夜と同じく、だいぶ疲れているようだ、と言ってくる。
「早く帰って休むといいのに。まだいるかね」
「帰るところでした」
 昨夜と同じような会話になりイルカは苦笑した。無意識にかざした構えをといた。
「よくわかりましたね、右手が腫れてるの。ほんの少しだけなのに」
 実際、受付所でも職員室でも、紅さえ、イルカの拳の打撲のあとを指摘した者はいなかった。腫れを言うなら、カカシの顔の方がよっぽど腫脹していた。よく見れば口布をしていてもわかるほど。
 イルカの方は著明な痣もなければ仕事にも差し支えのない鈍い痛み程度、そんな左右の違いを見分けた月輝の観察眼に感心しながら巻物を巻いていたら、手伝おう、と月輝がこちらに引き返してくる。
 小太りの男のゆっくりした歩調は、身体を左右に揺する様が四つ足動物の二足歩行のように愛嬌があり、熊のようだな、と感じた。いや少し下腹が出ているから、どちらかというとよく酒屋の前にいるデフォルメされ一升瓶を下げた狸というところだろうか。
 だが肥満は忍の力を量る物差しにはならない。良い例が秋道一族だ。あの一族のように食に対する執着がチャクラの糧となる忍もいるのである。
 ふと、観察眼の鋭いことから、ぼんやりとしているように見えても意外にこの人は切れ者ではないのかとイルカは思った。イルカのその考えを肯定するかのように、既に巻物を掴みスルスルと巻き戻し始めた月輝は言った。
「……月に、幻術か」
 イルカは眼を見張った。机の上に残っているのは月に関する資料だけで、幻術の見出しが付いた文献は既に書棚に戻してあったからだ。ならば、月輝はイルカの書き殴りのレポート用紙を見て幻術の類と判ったのだろう。しかしそこにもイルカは幻術の幻の字も書き記していなかったのである。
 あるのはカカシが連ねた印の順、そして僅かに記憶に残る呪詛にも聞こえた行。しかも音だけの記憶なので、どれも平仮名だけの意味の成さない片言だ。
「月輝さん、これ御存知なんですか? これ幻術だとわかるんですよねっ」
 イルカは巻きかけていた資料の一本を放りだし、月輝に衝突するような勢いで詰め寄っていた。横に立っていた男はふわんと体躯を揺らし、近付くイルカが伸ばした腕を故意に避けたように見えた。月輝の二の腕を掴み損ねたイルカの手が空を切る。年長の者に不躾な所作を向けたことでイルカは一瞬恥じ入った。
 月輝はたいして驚いてもいぬ口調で言う。驚いた、と。
「す、すみません。調べものの当てがなくて、焦ってて……」
 イルカは頭を下げ、レポート用紙を机の上で滑らせて、月輝の正面に向くようにしてみせる。
「もしかして、この印、御存知ないですか?」
 勢い尋ねるイルカをぼやんと眺めてきながら、月輝は短い首を斜めに傾げる。それは肯定とも否定ともとれた。これが生徒ならば、どっちなんだと問いたくなる場面だが、グッと耐えた。
「あの……」
 聞き返してよいものか。迷っている間にも、月輝はゆっくりと手の中の巻物をズル、ズルと、器用とは言えぬ速度で丸めていく。そうしているうちに可笑しさに堪えかねたというように、口の両端をクンとつりあげた。
「……似たようなものなら、覚えがないこともない」
 イルカは月輝の言葉を頭で繰り返し、歓声をあげそうになる喉から懸命に平静な声を出そうと息を整えてから、
「それでは、差し支えがなければ教えを請いたいのですが」
「だから驚いたと言った」
「……はい?」
「あんたのような生真面目な先生が、こんなものをなぜ調べる? アカデミーの子供らにはちと早すぎる」
 イルカは即答できなかった。こんなもの、と、生徒らには早いという表現で、月輝がこの印が使われる術の概要を、見抜いているのがわかったからだ。自分から言いだしておきながら、気を緩めれば顔から火が出そうになった。抑えたくとも隠せぬ羞恥はイルカの頬を一瞬でも染めただろう。イルカは顔見知りというだけの相手に、色事に関わる術を教えてくれと口にしてしまったのである。焦るあまり――。
 だがもう引っ込みがつかない。
「知りたいのです。御存知のことがあれば、教えていただけないでしょうか」
「なら、俺の勘は当たっていたな。煩っている。恋を」
「そ、それは違うんです」
 月輝は笑いを引っ込めていた。べつだんからかうつもりでもないらしい。相変わらずゆっくりとだが、巻物を片付ける手は休めていない。
「所詮他人事。あんたがこの類の術を悪戯に使うとは思えんし、そのような任務に就くとも思えんし……それならばなぜ知りたいのか解せないだけだ。理由は?」
「解きたいのです。この術を」
「誰が?」
 重ねて問われ口ごもる。もちろん自分が。この術にかかってしまったからだが、事実を語るのは躊躇われ、イルカは嘘をついた。
「友人が困っているので」
 月輝は短い首を竦めてみせる。その首を斜め向こうにクイとしゃくる。
「獣の項と、閨房術を調べるといい」
「獣と、閨房、ですか」
 イルカは月輝の示した先に視線は向けずに確認した。
「……まぁ、頑張ることだ。友のために」
 月輝はそう言うと、近寄ってきた時と同じのろい速度で出口に向かう。イルカは礼を言い頭を下げた。机に向き直ると十数本は広がっていた巻物はいつのまにやらすべてきっちりと巻き戻されている。あとは元の位置に戻すばかりになっていた。


2005.11.27



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