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満月の夜だけの-7-



――俺ってこんなに早漏だったっけ。
 なにかイルカを相手にしているといまひとつ、いや相当堪えの効かぬ息子にカカシは落胆した。
――知らないわよ、そんなのっ。
 声にした覚えのない呟きに対し、意外な人物の応答が聞こえたような気がしてカカシは首を傾げる。腕の中のイルカが発したものではない。吐精のあとに脱力した彼は身体をカカシに預けグニャグニャのまま湯につかっている。
(気のせいか?)
 気のせいだ。
「イルカ先生……」
 ねぇ、もう一回いい? と訊ねると、上向いたイルカの眼が不意につり上がり、カカシを睨んだ。口元は皮肉な笑みが浮かび一言、でも早いですよね、と言い放つ。
 カカシは焦った。もしかしてもしかしなくても、イルカは物足りないと言いたいのだ。満足していないのだ。
「ご、ごめんなさい、だって……イルカ先生が可愛いから、俺がまんできなくて……」
 おまけにギュウギュウきついし感じてるから色っぽすぎる。言いわけなどしてみたが、それでも男の沽券に関わる早漏という二文字は拭えない。こんな予定じゃなかった。自分は慣れた手管でイルカを翻弄して啼かせまくるはずだったのだ。
 カカシはイルカとセックスしたらこうと想像していたシーンがいくつもあった。体位やら愛撫の手順はもちろんのこと、夜通し繋がり明け方まで寝かさぬ自分に、イルカが言うだろうセリフ。
――あぁ、すごいっカカシさんの大きくて。
 とか、
――もう勘弁してください、これ以上は……。
 とか。
 全てカカシの妄想につきるのだが、お約束だろう、このあたり。
(それがなんで……「早いですよね」?)
「今度は頑張ります。頑張らせていただきますから、次はべッドにいって更にじっくりゆっくり……」
――ムダムダ。やめときなさい。
 イルカの口が覚えのある声で嘲笑う。女の声だ。よく知る相手だ。
「なんでおまえにそんなこと言われなきゃなんないの―っ!」
 カカシは姿の見えぬ敵に苛立ち叫んでいた。
(くそっ、これって……)
 悟った瞬間、カカシはイルカの身体を除け両手を組んでいた。
「解っ!」
 浴槽であった枠はグニャリと歪んで筆で描いた線のように細く伸びきりかき消えた。二人を満たしていた湯はぬるい温度となり泡と化し次に気体と化し失せた。イルカの姿も紙のように急激に薄くなり、カカシの足下に落ちながらしまいには透けるほど平たくなりそれも見えなくなった。
 頭を振り瞬きを二度繰り返す。視界には夕日紅の不機嫌な顔があった。
 紅の姿を上から下まで認めたあと、周囲を見渡すと、場所は自分のマンションではなく、上忍待機所のど真ん中である。待機所のほぼ中心に、ドーナツ状に置かれたソファーの上にカカシは転がっていた。場所的にイルカがいるわけはないが、一応室内をグルリと見回した。いない。そして今は夜ではない。明るい日差しが室内に行き渡り、窓から見える空に月はない。
 東に面した給湯室から、今日は同じく待機を言い渡されているゲンマが出てきた。任務は舞い込んだらしく、飲み終えたコーヒーの紙コップをごみ箱に放り身繕いをはじめている。
「大丈夫っすかー、カカっさーん。疲れてんじゃないっすか。朝っぱらから居眠りしてたと思ったら、すっげーうなされてましたよ」
 そう言いながら太股のホルスターを締め直し、ゲンマはおっさきー、と待機所を出ていった。残されたのは腕組みして高い踵の下足でカツカツと床を鳴らす紅と、カカシだけになった。丸いテーブルを挟んでドーナツ状の真向かいに脚を組んで座っている彼女は、むっつりとした表情でカカシを睨んだままだ。壁の時計で時間を確認すると、九時二十七分。出勤してから三十分も経っていない。
 寝転がった姿勢からのっそりと起きあがり、カカシはバリボリ髪を掻きむしった。紅に問いかける。
「あのさー、紅、どういうつもりよ」
 美しいくの一は、さぁね、とだけ言うと優雅に脚を組み替えた。思い悩むあまり切羽詰まるあまり、今の今まで気付けなかった。カカシは紅の得意とする術にまんまと引き込まれていたのだ。
「……だから幻術使いってやだっての。俺ホントに必要な時しか使わないもんね。だいたいさ、悪戯にしたってもうちょっと気をきかせなさいよ。早漏はないでしょ、早漏は〜っ」
 カカシが幻覚の内容の不満を露わにすると、紅はツンと横を向いた。
「あら、どの口がそんなこと言うのかしら。なにがホントに必要な時よ、自分はなに? イルカに思い切り私欲で使ったくせに」
「え? なんで……」
 ほとんどの上忍連中は、カカシがアカデミーの教師に入れ込んでいるのを知っている。べつだんカカシが隠してはいないからである。しかし、なぜ紅がイルカを怒らせた件まで知っているのだろうか。
「まさか……イルカ先生、おまえに告げ口?」
 疑わしそうに紅を見ると、バッカじゃないの、と返ってくる。
「あんたの愛しいイルカ先生はそんな男かしら。今朝、受付所で会ったらあんまり元気がないから私の方から問いつめたのよ。あんたイルカに卑怯な幻術かけたそうじゃない。カカシに反撃したそうだったから、私が仕返しに協力してやったのよ」
(仕返し? あのイルカ先生が?)
 あの善人が服を着たようなイルカが、仕返しなどという言葉を果たして口にするだろうか。告げ口より想像できない。まったくもって予想の範疇外だ。
「うそだ。おまえの独断だろうっ。なんてひどい女だ」
「んまっ。ひどいのはどっちよっ」
 カカシはもう一度時計を眺め、あぁーっと紅を指さした。
「じゃ、俺、受付所に、イルカ先生に会いに行ってない? どっから幻術? どっからがおまえの罠?」
「なにが罠よ。人聞きの悪い。呆れて説明する気にもなれないけど、ずーっとあんたはそのソファーの上よ、早漏さん。受付所に行かれたら迷惑なのよねぇ、イルカが。あんたの顔も見たくないんだから」
 なんて意地悪な女だろう。酷い術を行使した上に、酷いセリフをズケズケ放つ。カカシはあまりの言われように憤慨するよりも脱力した。
「……俺、早漏じゃないし」
 いや、早漏扱いはとりあえずはいい。いやいや決してよくはないのだが、その前にイルカが自分の顔も見たくないというのは本当なのか、紅の狂言なのか。彼女が見せた完全無視のイルカは、偽者のはず。本人に確かめなければ信じがたい。仕返しなどと彼は言うものか。報復行為はイルカが忌む類のものだ。だからこそ里を襲った妖狐を腹に封印してある子供、うずまきナルトが冷視され疎外されるのを見過ごせなかった。素の愛情を注いできた。そういう人だから、好きになった。そのイルカが言ったのか。仕返ししてくれ、と。
「……言わない、言うはずが……」
 カカシは立ち上がり、紅にどう非難されようが受付所へ行こうと出入り口に手をかけた。ノブを回して扉の蝶番がキリリと鳴ると同時、堅い、だが妙にきっぱりと澄んだ声がカカシに言った。
「言いました。俺が」
 会いに行こうとしていた本人が廊下に立っていた。間違いなくその言葉はイルカの口から発せられた。
「紅先生に、俺がお願いしました。二度とあなたが俺に近づかないように、俺にしたことを後悔するように、後味の悪い幻術をかけて下さいと……」
「イルカせ……」
 呼びかけにイルカはスイと眼を逸らし、失礼します、とカカシと入れ違うように待機所に入ってきた。怒りは起き抜けと変わりなくイルカの中にあるようだった。気安く名を呼ぶなと言われていたのだから、呼んで返事が返るはずはない。視線も極力合わせない。だが会話は必要ならするのだろうか。
 イルカは紅の前にまっすぐ歩いていく。紅はイルカの用向きを心得ていたのか、はいはいちょっと待ってねーと、腰の辺りをごそごそ探る。ポーチから取り出したのは四つ折りにした紙一枚。紅はパランとそれを開き、前の円卓でペンを取る。生成り色であの大きさなら任務の報告書だ。紅はサラサラと書き込んだあと、傍らに立つイルカに渡す。
「じゃ、受理お願い」
「はい、処理しておきます。お疲れさまでした」
 こんなところで報告書のやり取りとは特別扱いか。規則破りを嫌うイルカが、紅のために違反するのを、カカシははらわたが捩れる思いで眺めた。
 いくら紅が美人だからとはいえ、イルカの仕返しに協力したからとはいえ、なにも自分の目の前で特例を施行する親しさをひけらかすことはないだろうとカカシは思い、地団駄を踏みたい足はだがそうはせず、待機所の中にとって返す。
「なんですかそれは、違反でしょ、こんなとこで報告書の受理は」
 紅は肩を竦めて見せた。これには、カカシに背を向けた位置でイルカが答えてきた。
「いいんです此処でも。依頼主は俺なんですから」
 イルカは振り向きざま、報告書の表がカカシに見えるよう目の前にかざしてみせた。イルカの顔を隠す紙切れには、なるほど依頼主はうみのイルカとあり、ランクはC、任務内容は『上忍はたけカカシに対し幻術を用いて悪行の反省を促すこと』とある。
 四角く囲われた諸々の記入事項は紅の字できちんと埋められており、依頼された任務は終了したらしい。
 だが、カカシはそんなことをされずとも反省ならしていたのだ。謝ろうとしていた。していたのに出鼻を最初から挫かれ、どうせよと言うのだ。
 報告書を元のように畳んだイルカはそれを懐に仕舞うと、カカシに一瞥もくれずにスタスタと出口に向かう。イルカ先生、とまた声をかけてみるが、それは紅の、いい加減に諦めなさいよというありがたくもない進言と重なった。
「自業自得でしょ。関係は修復不可能よ。おしまい。終了。完結よ」
 カカシは離れていくイルカの背と紅を交互に見ながら、苛つきと落胆と絶望の中に唯一残る保険のようなそれを見いだし、歓喜に身震いした。
 狸男の意見はもっともだった。どうせ靡かぬ相手。一生決して叶わぬ思い。それならこういう道もありなのだ。
 カカシは断言した。
「終わってないっ。関係は、俺達は始まったばかりですよ、イルカ先生」
 イルカの脚はひたと止まり、訝しげに振り向いた。
「俺はもう、カカシさんとは個人的なお付き合いは……」
 冷たく言い放とうする言葉を遮った。
「言ってなかったけど、あれは一度限りの術じゃないんですよ」
 カカシは自信満々で猫背を反らしていた。イルカはそんなカカシの態度に眉根を寄せる。
「なん……」
「あんたが普段どんなに俺を避けようが嫌おうが、満月の夜になればあんたは俺が恋しくなる。俺を求める。絶対にその衝動には逆らえない。そういう術ですよ。一生涯の」
 カカシの言う意味を、聡いイルカはすぐに理解したらしかった。振り向いたままの角度で一瞬唖然とし、だがその次には苦い表情と化した面で吐き捨てた。
「……あなたという人は、どこまで卑怯なんだっ」
 踵を返す後ろ姿の肩はおそらく怒りのせいか微かに震えている。カカシはその姿を殴られた頬と顎の痛みを覚えつつも、笑いながら見送った。その笑いがどんなに虚しいものかは、イルカが視界から消える前からわかってはいた。
 力無く尻を落としたソファーが軋む音が心中の悲鳴のようだとカカシは感じた。笑うよりも、本当は泣きたい。これからの多くの時を、イルカに卑怯者呼ばわりされながら生きねばならない。ひと月のうちの、たった一夜のために。
「馬鹿なことして……」
 カカシを窘める紅の声には、非難よりも哀れみがより多く含まれていた。


2005.11.20



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