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満月の夜だけの-5-



 自業自得。自縄自縛。後悔は先に立たない。
 その前に、カカシは後悔に至るケースを想像をしていなかった。自分の腕も狸の術も、おいそれと中忍の力で解けるはずなしと高を括っていたのだ。
(なんでだ……)
 狸男はいちころ、と言わなかったか。
 いちころのあとにはその先の、永遠が洩れなく付いてくることを疑いもしなかった。術がなぜ解けたのかわからない。カカシは朝飯の湯気を前に、交互に打たれた顎と頬に手を当てたまま考えた。
 イルカは勤勉な男である。階級は中忍でもあの術を解く方法を知っていたのか。それとも自分が術のかけ方を過ったのか。
――それとも
 狸の幻術そのものが、もとから不完全なのではなかったろうか。
(たぬきぃ〜、なにがとっておき……)
 カカシはベストを引っかけ、イルカが出て行った玄関とは対面の窓から飛び出した。向かった先は里の中心地にある大きな公共施設。早朝のその建物は静まりかえっており、目指した敷地内の片隅にある、長屋のように連なる平屋の宿舎も沈黙していた。が、それぞれの部屋にところどころ気配はある。カカシは手前から九番目の部屋に侵入した。果たして訪ねた男はいた。一間の部屋の煎餅布団の中で、カカシの気配に身じろぎ、おや、と言った。
「こんな朝からどうした。のろけ話でもしにきたか」
 のろけどころか、カカシが言いたいのは泣き言だ。布団の中から首だけ出した狸男は、呑気そうな欠伸を一つして、面を着けぬ顔で、いい夜だったろう、とニヤニヤ笑う。
「……なぁに、礼には及ばん。誕生日の贈り物だからな」
 男はそう言うと、細い眼を閉じる。再び寝入ってしまいそうだった。カカシは枕元にどっかりと胡座かき、一度で肺が空になるほどの大きな溜息をついた。
「礼はない。のろけもない。朝になったら術は解けた」
 不機嫌を露わにカカシは幻術使いの掛け布団を剥いだ。眠そうな目つきは僅かにしばたいたが、あぁ、と言う応えに動揺はない。狸男はカカシが剥いだ布団をグイと元に戻しながら、またニヤニヤ笑う。
「夜は楽しんだろう?」
「……そりゃ」
 確かにイルカの方から抱いて欲しいと懇願された。禁域は容易く晒された。イルカの欲情はそれこそ露わで、なにも施さぬ前から性器は上向いていた。思い起こせば鼻血を噴きそうな愛しい人の裸体は、隅々まで網膜に焼き付いている。
 だが暴発。興奮のあまり合体に至らぬうち洩らしてしまった情けない子細を語る気にはなれず、カカシは頭を抱え、ボリボリと掻いた。
「あ―――っ、でも解けちゃったんだよ〜。一夜限りの夢だったみたいに。起きてきたらパンチにビンタ。なんかしくじった。それともあんたの術がヘボなのか、どっち〜っ」
 狸はカカシの嘆きに、あー煩いと舌打ちし、やっと身を起こす。そうして今朝初めてまともに眼を開いたのだろう、束の間カカシをジーッと凝視し、それから腕をあげ、口布の上から顎をチョイッとつついてきた。殴られて腫れた場所を触られ、痛みにイチッと尻を浮かすカカシに、ほぅっと感心してみせる。
「すごい力の女だな。おまえ顔の輪郭が変わってるぞ」
「女じゃない。男だよ」
「男? へぇ、そら物好きな」
 カカシは重ねて感心する狸に胡乱気に対峙する。
「男だと効力ないんじゃないの?」
「楽しんだと言ったじゃないか」
「だって……」
「言わなかったか?」
「……なにを?」
「そういう術だ」
「……そういうってどういう?」
 狸男は短い首をコキリと一つ鳴らし、欠伸をした。それから太めの体躯を揺すりながら、上忍のくせに察しの悪い奴だ、と嘲笑う。
「術が効を成すのは、満月の夜だけだ」
 カカシは唖然と狸の言葉を反芻する。
 なんだそれ。
「満月の……夜だけぇ?」
 詐欺の被害にあったような気分でカカシは脱力する。
「じゃ、満月の夜になったら、俺にまたあの幻術をかけろってーの?」
 狸男は苦笑した。
「本当に察しが悪いな。ま、色恋は思考も鈍らせるか。心配するな、一生効いてるさ。次の満月を待て。恋人は間違いなくおまえを求めておまえの部屋の戸を叩く」
「次の満月……って」
 カカシはあんぐりと口を開ける。ひと月も先ではないか。まるひと月も、昨夜の続きを待てと言うのか。
 狸男はカカシの反応にはかまわず、涼しげに言う。
「どうせ片恋なんだろう。靡かぬ相手が月に一度でも手に入るんだ。喜べ」
「ちょっと待て、狸おやじっ、その満月の晩に俺が里にいない時は?」
「そら会えなければ彼女……じゃなくて彼氏か? 相手は彷徨うだろうさ、世界中。だが朝になれば寝ずにうろつく羽目になった元凶を、さぞかし恨むだろうな。うむ」
 それは少し、いやかなりひどい事態ではなかろうか。カカシはイルカの冷たい表情を回想して愕然となる。
「……じゃーなによ。俺はさ、一ヶ月のうちのたったひと晩のために、それ以外はほとんどをあの人に恨まれて過ごすわけ?」
「それでも、だ。これまでよりはましだろうが。わかったら感謝して出ていけよ。俺は今日も夜勤だ。はいおやすみ」
 カカシは一方的に言われて、ポイと部屋から追い出されてしまった。
(……まし? これまでよりも? そうなのか?) 
 そんはずはなかろう、と釈然とせぬまま家に戻ると、イルカと食べる筈だった朝飯はすっかり冷えている。冷め切った飯を口に入れる食欲はもちろんなかったが、今日は久しぶりに珍しくも待機の予定で、遅くとも九時までには上忍待機所に詰めていなければならないから、うじうじしている暇もない。遅刻癖はいまさらだが、五代目火影の綱手は三代目より怒ると怖くて、それから人使いが荒い。待機と言いつけながら、どうせ某かの任務を命じてくるだろう。
 カカシは出勤の支度をしてから、ポーチの中身を探ってスケジュールの書き込まれた手帳を取り出した。今月の勤務割りを確かめる。不定期に任務を割り当てられる自分のものではない。アカデミー勤務のイルカのものだ。ストーカーよろしく職員室と受付所を探り、毎月毎月事細かに書き込んでいる。イルカが今日どこで何をしているのか、把握していないと気が済まない。これも愛ゆえの所業だが、他人の眼からは御苦労なことこのうえないし、イルカが知ったらさぞ鬱陶しがることだろう。
「ええーと、九月十六日……」
 カカシは指先で今日の升目を己に示す。
 今年の春からは、イルカは担任を外れている。受け持っているのは体術の演習と、薬学の講義。本日は午前中が受け付け業務。午後は五時限、六時限とも子供の相手。
「イルカ先生は朝から受付所……っと。とにかく早いうちに……」
 綱手から任務の達しがないうちに、これ以上こじれぬうちに、頭だけは下げるのだ。強気に術をかけたのは、絶対と永遠を信じていたためで、このような結果になった以上、謝罪は必然。ひと月経てば満月の夜が来て、確実にイルカがカカシの傍に戻ろうと、それは極めて短い時間に過ぎないのだ。たとえ愛を囁かれ抱き合えても、夜が明け月が細れば、カカシは拒まれる。
 そうしてまた殴られ、冷たい視線を向けられるのはたまらなかった。
 欲に眼が眩み狸にのせられて、馬鹿なことをしたと反省ひとしきり。カカシは再び殴られるのも覚悟の上で家を出た。
けれどカカシを待っていたのは、拳骨よりも手厳しいイルカの態度であったのだ。


2005.11.06



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