| イルカの目覚めは非常にすっきりしたものだった。 ぐっすり眠ったあとの寝起きは、瞼が軽く、朝日の眩しさが目に痛くない。 視線を巡らせ頭上に飾られた、二枚の写真が目に入る。亡き四代目と幼い子供達。それからはたけカカシと、イルカの元教え子達がイルカを視ていた。写真の横の鉢植えの観葉植物には、水やりをしたばかりの水滴がついている。その隣の目覚まし時計が示す時刻は六時四十五分を指していた。出勤には余裕のある時刻にホッとする。 部屋は美味そうな匂いに満たされていた。目を開ける前から嗅いでいた、鰹だしと味噌、それから焼き魚の香ばしさ。飯の炊きあがる時の独特の、ほっこりした蒸気の香り。キッチンに続くドアが半開きになっていて、それらの匂いは皆そこからこちらの部屋に流れてくる。 トトトト、とリズミカルな包丁とまな板の音は、きっと銀髪の男が立てている。ツンと漂う臭気で、長葱を刻んでいるのがわかる。味噌汁にでも入れるのだろう。次に聞こえてきたのは、ゴリゴリというおろし金の音だ。たぶん大根をおろしている。焼き魚に添えるための。 イルカはカカシのベッドの中にいて、一糸も纏っていない。全裸でいることに驚きはない。記憶は鮮明だ。カカシに抱いて欲しいと自分から告げ、自分で服を脱いだのだ。ただもう昨夜はカカシにそうして欲しくて、懇願した。愛しくて触れたくて、すぐにでもカカシのものになりたくて、我慢がならずにこの部屋に来た。 半身を起こして己の裸体を検分する。目に入る場所だけも数え切れない鬱血のあとがあった。特にこの間クナイでつけた刺し傷の跡には、重なるように大きな赤みがあり、かなり強く吸われたのだとわかる。胸の生々しい痕跡は、鬱血の他にも痛みとして残っていた。乳首がヒリヒリするのだ。最初は柔らかに触れられていたが、しまいに食いつかれるように刺激されたせいだろう。それから股間の奥には、いまだ何かを押し込められているような異物感が残っていた。 カカシに優しく、だが情熱的に全身を愛撫され、二度も精を放った。その瞬間の放出感は、自分でする拙い自慰の非ではなかった。雄であるがゆえの欲望を解放する時は、イルカとてただの獣に過ぎない自覚はある。正直に感想を言葉にすれば、かなり気持ちの良い射精だった。 気持ちは良かったが……。 いわゆるキスマークというものが付くほど吸われた皮膚を視ても、陰部にいまだまとわりつく感触の淫靡さを反芻しても、イルカは嫌悪がまさるあまりか冷静だった。初めて他人と肌を合わせたというのに、燃え盛る炎に水を打ったように欲情は退き、心身共に灰にでもなったように冷めていた。 イルカはベッドからおり、服を捜す。床に投げ出した筈の衣類はきちんと畳まれている。一枚一枚、黙々と身支度を整えた。ベストはクローゼットの続きの壁にハンガーでかけられていた。それにも袖を通す。 ちょうベストのジッパーを上げきった時、半開きのドアがキッチン側から盛大に開いた。脚でドアを押したカカシが、湯気の立ちのぼるトレイを持って居間件、寝室のだだっ広い此方の部屋に入ってきた。 トレイの上には、匂いからイルカが察した朝食メニューが載っている。出来立ての朝食を部屋の真ん中のテーブルに下ろしながら、カカシがお早うございます、と鼻の下を伸ばした笑顔で言った。イルカは無言で頭を下げた。 「ささ、朝ごはんにしましょう。どっちがいいか迷ったんですけど、やっぱりイルカ先生は和食かなぁと思って……」 弾むように語るカカシに促され、イルカはテーブルに近付いた。そして利き手を振り上げた。 え? とカカシが両眼を見張った表情がガツンッという鈍い音と共に後退した。イルカの渾身の力を込めた拳がカカシの顎にヒットしたのだ。 拳骨で殴られ、ふらついたカカシは、狐につままれたように間抜けに口をあけていた。みるみる腫れ上がる右頬から顎にのろりと手を当てる。痛みに歪む口元が、自分の名を発音しようとしているのがわかり、イルカは遮った。 「……イ」 「気安く呼ばないで下さい」 冷静を通り越し、冷徹な声だった。 「それから二度と、俺に近付かないで下さい」 カカシの顔色が青ざめ、動揺に瞳が揺れている。なんで、とか、うそ、とか口内で疑問符をモゴモゴと繰り返す。状況が掴めているのかいないのか。 そのカカシの左の頬に、イルカは今度は平手を打ち付けた。パシンという乾いた音と衝撃を、カカシは唖然としたまま受け、その痛みを確認するように指先を頬に埋めた。 いったぁ……というカカシの呻きは、まだどこか釈然としていないのか、ぼんやりしている。イルカの行動が信じられないというように、独語した。 「術……効いてないよ。なんで解けてんの」 イルカは言った。 「もう一度殴ってさしあげましょうか?」 けっこうです、とカカシが首を横に振る。 イルカもごめんだ。パンチの次にビンタを振るったイルカの手もジンジンと痛みを増していた。そして言葉にして罵れば幾らでも文句や恨み言はあったのに、カカシに対する憤りは暴力に変換され残りは萎んでしまった。腹が立つやら悔しいやら、カカシへの思いはがっかりを通り越し、呆れの境地にあり、しかも渦巻く感情は多すぎて、とても巧くは言葉にできないのだ。 「お見事でしたよ、あの幻術は。気付いても解の印を結ぶのも叶わなかった」 嫌味を吐くのがやっとである。 言い訳なんて何も言わせるものかと、イルカは眼に力を込めカカシを睨んだ。きつく睨み過ぎて眼が霞む。いいや、霞むのは涙腺からジワリと滲む涙のせいだった。 (あぁ、俺は……) 媚薬を盛られた時よりもっと哀しい。幻術など更に悪質だ。 イルカは部屋の隅に寄せらていた鞄を掴んで、大股に玄関に向かった。下足をつっかけただけでドアの外に飛び出した。 カカシに追いすがろうとする気配はなかった。 助かった、とイルカは思った。カカシのマンションの階段を駆け下りるうち、飽和した水滴がボロッと頬に落ちてきたからである。 こんな顔は見せたくない。 (見せるもんかっ) 泣きたくなる理由をどうせカカシは理解しない。 (友人でいたいのに……) それが叶わぬ口惜しさ。 どうしてあの男は自分などのためにあそこまで堕ちるのか。媚薬だの幻術だのと、なりふりかまわぬ行動がいかに不様なのか自覚がない。イルカが慕っているのは、カカシのそんな自尊心の欠片もない部分ではないのだ。 けれど早朝の路上をまっしぐらに家へと走るうち、イルカの僅かな涙はすぐに乾いてしまった。 友人付き合いさえ、これで終わってしまった。完璧に。 そう思うと、泣くに泣けない自分がいたのだ。 それは哀しみよりも、空虚をイルカにもたらしている。 道端を突風が駆け、落ち葉を運ぶ。早くに紅葉し終えた椚の葉だ。風に煽られるまま螺旋状に旋回する木の葉は、カラカラと足元を転がった。つもりはなくてもイルカの足底が乾燥した一枚を踏んでいた。乾いた葉は呆気なく形が崩れてバラバラになり、走り続けるイルカの後ろで塵のように舞った。 それはさながら長く続いた二人の絆が、壊れて無くなる瞬間の様だった。 |