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満月の夜だけの-27-



 カカシが覚えている限りの記憶では、アスマの自宅は殺風景なものだった。
 千鳥足のアスマを送りがてら、久しぶりに招かれた居間に入って最初の印象は、べつな家に来たようだ、である。 カーテンの柄が違う。家具の位置が変わった。しゃれたチェストはなかった。食卓は二周り大きくなり、花模様のテーブルクロスが敷かれていた。真ん中に花など置かれているものだから、その向こうのアスマの顔とジロジロ見比べてしまう。飾りたてればこんな部屋だったのかと、驚きと感心を込めてカカシは言った。
「はー、変われば変わるもんだねー」
 アスマが酒で赤らんだ顔で照れたように言う。
「とにかくだ、生きてて良かったよな」
 会話が噛みあわない。アスマはだいぶ酔っている。カカシの方はいきなりの焼肉が応えたか酒の吸収が悪かった。椅子に腰掛けて重く感じる腹のあたりを撫でていると、台所から明るい女の声がした。打ち上げに合流し損ねた紅が来ている。
「ほーんと、もうカカシの顔なんか視なくて済むと思ってせいせいしてたのに」
 憎まれ口を言っても、紅は素で笑うので、カカシは構えを解いて普段の軽口になる。
「……なに、おくさん、まだ俺のこと怒ってんの?」
「まだ奥さんじゃないわよ。はい、お茶がいいわよね」
 レースの花模様の上に置かれた湯飲みに、これまた花柄の急須から緑茶が注がれていく。男二人の放つアルコール臭を押して茶の香りが満ちたので、カカシは先の任務を回想して些か所在をなくす。べつに香りで見分けがつくほど緑茶の通ではなかったが、木の葉に出回るほとんどの茶葉が、茶の国の品と知っているからだった。犠牲の多い任務を思えば偽善とわかっていても呵責する。最初の判断の過ちは指摘されるまでもなく、焦りの現れだった。
 原因のイルカを思う。
 イルカとも酒以外に良く茶を飲んだ。差し向かいでいるとカカシはなぜだがいつも喉の渇きを覚えてがぶ飲みしたものだ。異常な口渇が、体内の水分不足のせいではなく、精神的な渇きであることに気付いてどんなに動揺したか、イルカは知らぬだろう。
 三代目の生前、火影の執務室に土産の茶筒が二つ並んだことがある。一つはイルカが所用で出かけた際に、購入してきたのである。頼まれたから買ってきたカカシの茶と、頼まれもしないのに買ってきたイルカの茶が里長の前にあった。老人はどちらも喜んでいたし、土産がだぶったことをイルカも偶然ですねと無邪気に笑っていた。カカシだけ笑えなかった。
 イルカは里長が喜ぶ土産も知っていたのだろう。昼飯を共にする様子も何度も見かけていたから、他の者よりかなり親しいのはわかっていた。あらかじめわかっていたことを目の当たりにしただけなのに、カカシは里長とイルカの朗らかなやり取りが鼻についた。自分が不愉快になる理由がその当時は解らなかった。
 それはイルカが生徒等と戯れている場面に出くわした時に感じていたものと似通っていた。他人なのに親子のように睦まじい里長との関係も、厳しく諫めても懐いてくる生徒等との信頼関係も、どちらも微笑ましい事柄なのに、カカシはイルカの人柄から自然滲み出る言動や人間関係をそのまま受け止めるのが難しかった。
 後に知る。徐々に知っていった。あの男の優しさも労りも、表情も言葉も仕草もすべて、自分だけのためのものではないから不快になったのだ。捕食に似た願望は隠し、優しい面を特殊部隊の仮面のように着けて近付いた。理性による着脱が不可能になる限界まで。
 アスマの言うとおり、できもしない我慢であったろうし、我慢の下には恐れもあった。拒まれる瞬間が怖くて無体の決行を先延ばしていただけだろう。あそこまで唾棄されて、ここまでこじれるとわかっていたなら、最初から仮面などつけなければよかったとは思う。
 無駄に過ごした時を振り返れば、湯飲みの中身は緑茶の旨みは失せ渋いだけの味がした。
「……はやく、イルカも帰って来るといいわね」
 紅がカカシを慰めるように言うのに対して、アスマは酔いのせいか、べらぼうめ、と声を荒げる。
「顔つき合わせりゃどーせ喧嘩だろう。満月にゃ好き勝手されちまうし、ゆっくりしてきた方がいいぞー、イルカ〜」
「なに言ってるのよ、あんだけイルカを罵倒しておいて。おまけに口出しするなって私に言ったくせに」
 紅は酔っ払いの肩を小突いた。カカシには苦笑いを向ける。
「なんだかんだ言っても、この人、あんたのこともイルカのことも大好きなのよねー。妬けちゃう」
「あー、好きだともさ〜、イルカもカカシのことが〜」
 浪花節のように唸るアスマに、カカシは呆ける。
「……なに言ってんの? アスマ」
 紅は高笑いしてから、わかったわかった、とアスマの肩をポンポン叩く。
「おかしいでしょ、この人。でもそう思ってるんですって」
 カカシは、有り得ない、と呟いて俯いた。
「まぁこの人の勘違いは置いといて、私はもう干渉しないことに決めたから、ちゃんと自分達でなんとか平和的に解決しなさいよね」
 カカシは両手で湯飲みを包む。暖かな飲み物に縋るように。
「解決なんて、永遠にしない」
「あらー、ずいぶん悲観的ね。関係は始まったとかなんとかえらそーに宣言してたくせに」
 カカシが仏頂面で湯飲みに口をつけ、二口ほど啜ったあとだった。使役の呼ぶ声が耳に届く。カカシはそれを機に立ち上がった。
「帰る。お茶ごちそーん」
「なんだ、もー帰っちまうのか〜? イルカ探しに行くのかよー」
 それならとっくに犬達を走らせている。酔っ払い相手に真顔で言うのもなんなので、お邪魔みたいだし、とからかった。アスマがまだ付き合えとコップをかざすが、そこにはミネラルウォターが入っているだけだ。
「はいはい、私が付き合うから」
 紅は同じ形のコップに自分の分だけ焼酎を注いで、カカシにお疲れさん、と手を振ってくる。酔っ払いは中身の違いに気付かずに、コップをカチンと合わせてしょうがねぇな、などと言う。けれど紅を見る目は、少しも不服そうではない。それをカカシは羨ましく思いつつドアを押したのだ。


 カカシに染みついた大蒜と酒の匂いは、北から吹いて来る風に少しは流れたはずだった。しかしごくろーさんと言ったカカシへの、パックン返事の一つ目は、におうのー、であった。抱き上げようとしたら、退かれてしまう。自宅に帰る道すがら報告を聞くつもりで歩き出しても、パックンは着いて来ない。
「そんな距離とんないでよ、傷つくでしょ」
 カカシが振り向くと、パックンはひとつ身震いした。
「悠長に聞かせる話はない。行くぞ」
「どこへ?」
 立ち止まるカカシの進行方向とは反対に、パックンは小走りに駆け出す。カカシは踵を反し大股で追いついた。
「任務先でイルカ先生になにかあった?」
「任務先もなにも、里は出ておらんようだ。皆と手分けして大門の外を八方探ったが、イルカが歩いた痕跡などどこにもない」
 カカシは険しく聞き返す。
「里を、出ていない?」
「匂いは木の葉病院の裏手で途切れたままになっておる。それが一番新しい。傷病による欠勤ならば任務とは公言されないだろう。春野サクラに聞いてきた。病棟内に入院はしておらん。少なくともサクラの知る範囲では。もちろん自宅も留守だ」
 カカシは報告を聞きながら傾いだ首をもとに戻す。
「五代目が嘘をついてる?」
「事情は直接聞くしかないだろう」
 パックンは先に立って火影邸に向けてゆるやかに加速した。カカシも疑念を抱えたまま後に続く。一人と一匹が夜道を本格的に駆け出す前に、暗がりに融け込んでいた影が立ち塞がった。
「どちらへ行かれるんですか?」
 カカシは忍犬と共に踏鞴を踏んで舌打ちした。幸い辺りに人影はない。民間の家々も寝静まる頃合いで、灯りのついた窓も近くにないので遠慮なく名を呼んだ。
「テンゾウにはかんけーないと思うよ」
「……僕はその名前で呼ばれるの、嫌いなんですよね」
 特殊部隊の後輩は、面の下から拗ねたような声を出した。実際カカシはまだ休暇の最中なのに、自分はもう別な任務で動かされる羽眼になっているのだから面白くはなかったろう。
「呼び方なんかどうでもいい。俺の行き先はもっとどーでもいいことでしょ」
「よくないです。五代目のところならやめて下さい」
「へー、そう言うおまえはなにやってんの?」
「……先輩の護衛」
 テンゾウの肩がもちあがる。両の掌が夜空を向いていた。
「なんで?」
「先輩、狙われてるらしいですよ」
 カカシは誰に、とは聞く気になれない。恨み辛みは覚えているのが面倒なほど、数には心当たりがあり過ぎる。それだから冷めた口調の問いになった。
「よそもん入りこんでんの?」
「入り込んでるかどうかはわかりません。今回、身内かもしれない。で、とりあえず先輩の身辺警戒中なわけですよ」
 自分の身くらい自分で守れる。そう言いかけてテンゾウの視線が変に泳ぐのを、カカシは観察していた。ふーん、と納得した風に腕組みをして、漆黒の夜空を束の間仰ぐ。塵のような星に囲まれた半欠けの月は淡く白かった。
「なにが起きてる? 俺のいい人が行方不明なんだよね」
「先輩に優秀な使役達がいることは、今回はデメリットですね」
 テンゾウは長い手甲を嵌めた腕を組んでいる。合わせた眼は射るほどに互いに鋭利であった。
「気付かぬふりであとまる二日は静かにしててください。里の一員として、里長を煩わせる行動は慎んでいただきたい」
「ふん、過剰な休みにやっぱ思惑ありか。火影邸に寄せ付けたくなかったらしいな」
 カカシは眉をひそめ、同時に腕を伸ばしていた。
 テンゾウは反射的にカカシの手首を掴んでくる。カカシのアンダーシャツの下で骨が微かに軋んだ。カカシの皮の手甲の内側がミシリと鳴る。テンゾウの襟ぐりがつりあがる。手首に加えられる力を無視するようにカカシの指が屈曲してテンゾウの首を絞めた。
 ザリッと路面がすれた音がして、特殊部隊の下足が浮いていた。
「……先輩と、やり合う気はありませんっ」
「ならもったいぶらずに言え。イルカ先生はどこにいる? 二日待てば会えるのか?」
「会うのは、……無理です」
 締めつけた喉からテンゾウが呻くように言う。
「……背信の、嫌疑がっ」
「なんだと?」
 カカシは耳を疑った。
「……彼は、同胞に殺意有りで拘置、木の葉病院内の毒の罠にかかって、まだ、ち、治療中……。黒幕の有無が、不明なのでっ……、だから先輩の周りを、けいかいして、いろ…と、五代目が…っ」
 カカシのテンゾウの襟ぐりを掴む手が僅かに弛む。虫も殺さぬ風のイルカの普段の笑顔を思い、次いで自分を蔑視するきつい眼を回想した。足元でパックンが低い唸りを小さくあげる。
「……イルカ先生のターゲットは、俺か」
 納得した上で声にした。カカシに驚きはあまりなかった。
「ま、俺はそれだけのことしたんだろうな、あの人は潔癖だから。結託者なんていたっていなくたって、それこそどーでもいいわ俺」
 けれど元凶の自分になぜ咎めはないのかと、不思議に思い手の力が更に緩む。テンゾウが隙に乗じてカカシの手を逃れ、ひとつ咳き込む。肺に空気を取り込む深呼吸が二度繰り返された。
「……ったく、絞め殺す気ですか。ゲホッ、脅さなくたって、聞かれれば、説明くらいするつもりでしたよ」
 テンゾウがさもからがらに言うのに、カカシは鼻白んだ。
「よく言うよ。本気になれば俺なんか敵だと思ってないくせして」
「立派に敵ですよ。頚動脈まで押さえることないでしょうっ。抗議ついでに忠告させていただきますけど、先輩が下手に騒ぐと五代目の神経がもっと逆立ちますよ。お二人がどうこうなるのを、五代目は好ましく思ってないようですから」
 カカシはおどけてみせた。
「どうこうって、どーなるっての。俺の片思いだっつーの。だいたいね、恋愛すんのにいちいち火影の認印がいるかっ」
 カカシはパックンを促し、まだ喉元を摩るテンゾウの肩を避けた。一飛びで家屋の屋根にあがる。テンゾウはすかさず追って来た。来るな、と吐き捨てたが、火影の命で張り付く相手が聞き入れるはずもない。すぐに横に並ばれる。
「先輩、まじめに火影邸に行くのはやめた方がいいです」
「うるさい。イルカ先生がそこまで思いつめた原因は俺なんだから、五代目に謝って釈放してもらう」
「わざわざ知られていない部分を明かす必要はないと言ってるんですよ」
 たぶんカカシはテンゾウのこのセリフに一番驚いた。七つばかり民家の屋根を渡ったところで思わず足が止まる。
「例の幻術のこと、あの人、五代目にはしゃべってませんよ。本当に優しい人なんですね。自分は間違いを犯しても、それでも先輩の立場を気遣っているんでしょう。せっかく庇ってもらえたのに、自滅することないです。いい機会じゃないですか、もう関わるのはやめたらいい」
 鋭い風がカカシの足の下の家屋の雨樋を浚った。舞い上がる埃と枯葉の断片がバッと頬を打つ。逆立つ髪に塵が通って不快に顔を顰める。
「……それ、庇ってんじゃないでしょ」
「え?」
「浅いよおまえ。裏読めよ」
 カカシは惚けたようなテンゾウの眼を見据え、笑いを堪えきれず喉を震わせた。
「ハハッ、おまえあの人の人柄に騙されてるよ。いや人柄に間違いはないんだ。あれは対はたけカカシ用、俺限定の意固地さだからさ……」
「なに、言ってるんですか? 人柄に惚れたんじゃなかったんですか?」
 カカシはすぐにテンゾウの疑問に答えることができない。笑いが止まらなかったのだ。
「ハッ、ククッ、今ごろさ、あの人は拘置所でしめたと思ってるよ。少なくともそこにいる間は、俺は近付けない。なにもされずに済むじゃないの、ハッ」
 笑いの切れ目にカカシは平坦に呟いた。
「――引きずり出してやる。月が満ちるまでに……」
 唖然とするテンゾウが一歩此方に踏み出してくる。
「……先輩のそれは、本当に恋なんですか? 思うようにならないから、屈服させたいだけなんじゃないですか?」
 カカシは咎めるような視線を振り切るように、両手を持ち上げて素早く印を組む。
 白煙があがる。使役を道連れに宙を飛ぶ。
 カカシはテンゾウが茫然と自分を仰いでいるのを視界の隅に留めつつ、綱手に談判するべく火影邸に向かう。
 遅れてテンゾウの気配が動き出すのは感じていた。木遁忍術を扱う若者は土と水の力を頼みに先回りをしているだろう。そう知りながら、カカシは目的地を変える事はなかった。


2007.08.05



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