前頁次頁



満月の夜だけの-26-



 イルカは綱手の叱責を聞いてから何時間経ったのかわかっていなかった。動かぬ身体をもてあまし、天井と壁だけ見ていたのでは時の移りが曖昧で、左腕に繋がったままの輸液の雫が規則的に落下するのを数えてみる。一適が一秒毎に落ちるようなので、六十滴数え、それを十回くりかえして十分、と思う。六百滴以上は眼が疲れてきて集中力が続かなかったから、あとは無意味に眺め続けている。プラスチックの輸液の瓶には糖質、電解質、アミノ酸の名称が連ねて印刷されているが、解毒の薬がまだ混じっているらしい。他に睡眠導入剤でも含まれているのだろうか、イルカは時々ひどい虚脱と睡魔に襲われ眠り込んだ。どれだけ眠ったのか時計がないのでこれも確かめようもない。ただ身体の隅々まであった麻痺感覚が消えつつあるし、部屋の腐臭も薄くなったから、それだけの時は経たのだと思う。
 アカデミーの教師の変わりなぞいくらでもいるし、自分は任務に出ていることになっているのだから、何日此処にいても訝る者はいないだろうと考える。日のあたる場所に戻れずとも、任務に出たまま行方不明になる忍はいくらでもいる。イルカがそのいくらでもある事例の一つになってもおかしくない。だから何も考えないようにした。考えるまでもない。何にも備える必要もない。身体の回復も特に強くは望まなかった。転がったまま沙汰が降りるのを待つだけだ。
 カカシのことも、無論、思考から追い出し続けていた。
 温められたパイル地が皮膚を這っているので、眼が冴えた。シズネがイルカの身体を拭いているのだ。イルカが視覚で捕えたシズネの動作は、あとから少しだけ遅れて皮膚に染みてきた。摩擦と湿りと皮膚よりやや高めの温度を前回よりも強く感じることができる。その差で麻痺の回復具合が知れた。
 目上の上忍に世話されるイルカに遠慮や抵抗はあったが拒む術はない。なにより彼女が仕事としてやっていることに、羞恥を示すのもおかしなものでそこは割り切った。
 視界に入るシズネの腕が存外に細く華奢なのに気付く。動きは手馴れていて、それでいて丁寧だ。髪は短めなので、首が傾くと白い項が見え隠れした。耳たぶの後ろの薄い皮膚の下に、毛細血管が細く青く透けている。肩幅が狭い。袖まくりした二の腕の内側がとても白い。胸元の襟ぐりの合わせ目では、乳房に向かい豊かな傾斜があった。要所の肉のおうとつに、女性独特の丸みがある。そんな異性の身体的特徴を間近にしても、そこにはろくに動揺しない自分のおかしさに我ながら退く。
 いずれにせよイルカはシズネが気の毒だった。罪人の下の世話など楽しい仕事ではないだろう。
「俺の面倒なんか、あなた以外の誰かに任せればいいんじゃないですか?」
 思うまま口にした。シズネは手をとめずにイルカに眼を合わせてきた。
「こんなの、火影の付き人の仕事じゃないでしょうと言ってるんです」
 シズネは深刻な面持ちになった。
「今回のことはまだ公にしてません。誰にも頼めないんです。病院の中のあの備えに関しては、綱手様は慎重なのです。罠を張っていること自体、極一部の者しか知らないですから。綱手様の火影就任が御意見番と自来也様の意向とはいえ、里の万人に支持されていたわけでもなかったのはイルカ先生も御存知でしょう?」
 シズネは格下のイルカにいつも通り、先生という敬称をつけ続けていた。普段の態度を保つ彼女が、無理をしているように見えなくて、そのこと自体に違和感を覚えながら、そうですかと頷いた。綱手と同じように辛辣な言葉を向けられた方が、かえって気が楽なのにと親切を恨みがましく思う。いまは現火影が危惧する不穏分子の存在よりも、シズネの細やかな配慮がひっかかる。なぜ彼女がこのように自分に親切なのか、理由はわからない。もともと彼女は誰にもこうだったかと記憶を掘り返す。綱手の後ろに常に控えて主人に仕える彼女の、長年染み付いた付き人としての性分なのか、と。
 顔から始まった清拭は、首から胸、腹から背中、四肢に及び、最後になんの躊躇もされず陰部で終った。床に置かれた湯の張ったバケツにタオルが放り込まれ、水音がトポン、と静かな留置所の天井に木霊した。
 掛け布を元通りにかけられるが、両腕と足先だけ出たままだった。
「そんなことまでしてもらわなくても……」
 爪切りまで持ち出して枷付きの手を取るシズネに言ってみる。俺は罪人なのに、と自ら貶めてシズネを覗う。
「ご心配なく。動けない病人の世話は慣れてます。医療忍としての最初の修行は、サクラさんと同じ、私も傷病者の看護の助手からはじめました。それに私は好きでやってるんですよ」
 パチン、という爪を切る軽やかな音が意外な大きさで響いた。イルカは彼女の医療忍としての性分をそんなものかと納得して黙っていると、フゥと溜息をつかれてしまう。さすがに精神的に嫌気もさした頃かと顔色を見ると、シズネは俯いたままもう一度息を吐き、何がおかしいのか笑ったようだった。
「なにか?」
「……いえ、イルカ先生は、よほど理性的な方なのか、それとも女性に興味がないのか、どちらなんでしょう」
 イルカはシズネの不審に即答できぬゆえに天井に眼を逸らした。理性を量られれば予想外に自分が短慮な人間であったことを省みる。女性に性的な興味があまりない事実は、口にしてしまうのははばかれた。
「異性の私が身体のどこを触っても、顔色ひとつかえないんですものね」
 シズネは手の爪を全部切りそろえてしまうと、今度は足先の方に移動しながらそう言った。イルカは多少オーバーに首を傾げてみせた。
「……どれだけ恥ずかしかろうが動けないんだから、しかたないです。おかしな反応を示したら、こういう時、看護する側は困るのじゃないですか?」
「身体が回復に向かえばありえることです。慣れていると言ったでしょう。困るもなにも、そういうことはとても自然なので驚くことではないんですよ。むしろあまりの無反応にびっくりです。そっちはもう元通りの筈なんですよ。口がきける頃からね」
 手は相変わらず休めぬまま、そっち、と言った箇所になにげなくシズネの視線が移動したようだった。イルカも同じ場所につられて眼がいく。室温が一定に保たれているのか、イルカの裸体を覆う布は薄く、身体の線は露であった。下肢の付け根で項垂れたままの性器には、いまだに排尿を促す管が通されている。
「こんなもの突っ込まれてたら、その気になるものもなりませんよ」
 冗談交じりで言うと、シズネは苦い笑いを浮かべながら、爪の切れ端を足元の屑篭に落とした。束の間手の中で爪切りを弄びつつ、ベッド脇の椅子に座った。横からじっと覗かれ、髭もあたりましょう、と壁の棚から剃刀を持ち出してきた。鏡もないから不精ひげの伸び具合をイルカは気にかけずにいたが、彼女にはさぞむさくるしく見えたのだろう。
「……好きだと言ったのに」
 剃刀を当てたあとをタオルで拭いつつ、囁くようにシズネが言った。イルカは瞠目してシズネの頬が微かに染まるのを凝視していた。ふいに伸びてきた掌が、髭の薄くなった頬を覆うように当てられる。少し前の会話を回想してはじめて動揺した。
「シズネさん、それは……」
 うろたえて首をふる。シズネの掌が頬から外れる。彼女は少し傷ついたように瞼を伏せた。
「あなたほどの女性が、俺ごときになにを言ってるんですか」
 イルカは本心から言った。顔立ちも美しい優秀なくの一が、火影の付き人ともあろう者が、一介の教師に心を寄せる図は滑稽なほど不釣合いだった。
「……いいんです。ずっと前からわかってます。はたけ上忍との仲は」
「だからそれはっ」
 イルカは即座に誤解を解こうとしたが、シズネの言葉に遮られる。
「いいんですって。今年の春くらいに少し様子がおかしくなって、それから夏になったらいっそうぎくしゃくして、あぁお二人は気持ちを打ち明け合ったんだなと、そういう仲になったのだなとわかりましたから」
「馬鹿な。どこをどう見てたら、そんな誤解が生まれるんですか?」
「どんな態度を見ても、ですよ。イルカ先生も、はたけ上忍が……」
 続く言葉の先を聞きたくなくて、ちがいますよ、と語尾荒く否定した。
「うそ。好意を持って好きな人を眺めていると、その人がいつも誰を視ているのかくらいわかります。尋常ではない眼で見詰め合って、いつもあてられてました」
 イルカがもしも動けるなら、跳ね起きシズネの誤解を全身で否定していただろう。だが自由になるのはまだ口と表情筋ばかりだ。制限された表現の手段はもどかしい。思い切り声をはりあげ、顰め面になる。
「俺のは見ているんじゃありません。睨んでいるんですよっ!」
 語尾に力を込めシズネの勘違いをなお正そうとするが、シズネは両肩を竦めて首を横に振った。
「だとしても、口ではどんなことを言ったって、あなた他の誰も眼中にないじゃないですか。私以外にも、イルカ先生に好意を持つ女性は数人知ってます。でもはたけ上忍がいるから誰も近付きません。彼と張り合う度胸は誰もないし、割り込む隙もないですよね」
 シズネはいかにも諦めているというように言って、今度は穏やかに笑いかけてくる。イルカはもう呆気にとられてしまった。
「シズネさん、自白剤が効いていた時間、五代目と一緒にいたじゃないですか」
「ええ、いましたよ」
「じゃあ聞いていたはずですよ、俺があの人のことどんなに恨んでるか……」
「そうですね。でも恨んでるとは言っても、嫌いなんて一言も言いませんでした」
「好きだとも言ってないでしょう。自白剤が長時間効いていたら、だいきれーだって言ってました」
 イルカは自棄的に乱暴に吐き捨てた。
「あらいざらいお聞きできなかったのは私も残念です。知ってますか? ああいった薬の効果がどれだけあっても、人の脳は隠したいことは最後まで隠蔽したくて抵抗するものですよ。綱手様に隠してるのはいったいなんですか? はたけ上忍への想いじゃないですか? 御意見番の眼や、綱手様が同性間の恋愛を疎ましく考えてるのを御存知で、嘘を突き通したいのじゃないですか?」
 シズネが早口でまくしたてる。イルカは唖然とした。
「……想いは、殺意ですよ」
「それは先行する上辺の感情が先に出ただけです。恨みの裏にあるあなたの想いのことを言ってるんですよ」
 これは新手の尋問なのか。親切心と好意があるとしても、シズネが綱手の忠実な部下であることをイルカは失念しかけていたのに気付いて冷や汗が出た。
 綱手に隠していることは確かにあった。一つはカカシが自分に得体のしれない術をかけた事実である。暴行と呼ぶなら呼べる。そしてカカシの失態で醜態だった。性的行為の強要よりも、不当な忍術の行使の方がカカシを貶める。なぜ自分は真っ先にそれを口にしなかったのか。イルカは困惑して、シズネを直視できなくなった。シズネの言う恨みの裏なぞ意識していないのに、無意識がそれを声にするのを拒絶したのだ。
 綱手に聞かれ、説明する内容を嫌悪するゆえ黙っていたが、それは同時に自分の醜い性癖も語らされる羽眼になるからという理由もあってのことだ。断じてカカシを庇ったわけではない筈だった。
「裏なんか……」
 惑うままやっとて出た言葉は続かなかった。
「ないと言い切れないでしょう。はたけ上忍に、本当にもう会いたくないですか? このまま会えなくても後悔しませんか? こんなところにずっといたいなんて本心じゃないですよね? 彼がもう帰っていることは綱手様からお聞きになったでしょう? 本当はすぐにでも会いたいのじゃないですか?」
 いちいちを不思議そうに聞かれる。不思議がられることこそイルカは不思議でならない。
「……ずいぶんと思い込みの激しい方だったんですね」
 イルカは揶揄混じりに返し、反論を半ば諦めた。シズネは思い込みじゃないですよ、と力強く言う。
「イルカ先生こそ、おかしな思い込みしてません?」 
 そう言うと、シズネはかけ布の上から胃の辺りをしきりに探り出す。それから下腹部も。少しの間目を伏せたあと、いいようですね、と呟いた。
「明日には飲んだり食べたりできますよ」
 一変して柔らかに微笑まれる。イルカは頷くしかなくて、また来ますねと言うシズネの背中が一枚きりの引き戸の向こうに消えるのを見送った。
 シズネの誤解はどうにもなりそうになかった。賢すぎて考察が飛躍しすぎるのかと寝ながらにして眩暈がしてくる。身体が自由に動くなら、頭を抱え蹲っていただろう。


2007.07.23



前頁次頁