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満月の夜だけの-25-



 身体はまだ動かぬまでも、秒刻みに意識は正常になり、イルカはある瞬間から綱手の難しげな顔に見据えられているのを知った。
 綱手はイルカの見ている前で留置所の結界を二重張りにした。また、イルカを操る影の存在無しと知っても疑心は拭えぬと声にして、はたけカカシの身辺警護に暗部をつけると宣言した。
 窓がなく、明かりは天井の無影灯ひとつしかない異臭の残る部屋で、イルカは眼に本来の光を湛えて言い切った。
「五代目、俺は自分のしたことはわかっています」
「そのようだな。おまえは私をがっかりさせたよ。三代目の知恵袋とは誰の通り名だったか、もう忘れることにする」
 失望の溜息を露骨に吐かれる。イルカは里長の信頼を失ったことを痛感し、それに関しては悔やむ。カカシが発端とはいえ、精神の均衡を保てなかった自信の弱さが仇だった。そして里長の周到な備えに感服し、見苦しく言い訳を並べる気にもなれない。
 綱手はイルカの両手と両足の首にチャクラを吸収する枷をつけている。イルカの身体はまだまだ若く健康で、数日すれば存分に戦闘に耐えられそうだからと理由をつらつらと並べられる。
「こんな枷などなくとも、あなたを相手に逃げようなんて……」
 イルカは我ながら悲愴にはほど遠い平坦な声音の尻を窄めた。今の自分の顔が、憔悴した表情に見えていることを心裏で願う。鏡があれば確かめてみたかったが、綱手が罵声を浴びせてこないから、少なくとも罪人への哀れみくらい誘ったか。それとも肉体のぶざまな様に、罵る勢いもそがれているのだろうか。
 しかし綱手の問いは、妙な穏やかさで直接的な糾弾には聞こえず、そのいちいちがイルカの胸の内に鋭利に刺さった。彼女の、イルカの背信行為に落胆する度合いの深さが、怒号の押さえ具合でひしひしと伝わってくるのだ。
「……なぜカカシの死を望む?」
 イルカは装った冷静さで、さぁ、と曖昧な返事をした。
「自白剤でそう言ったなら、それが俺の本音なのでしょうね」
 まるで他人事のようにイルカは茫洋と言った。夢心地に白状されられた内容は、ほとんど覚えていなかったが、先刻シズネが同情からか、哀しげに教えてくれたのだった。おそらく自分はカカシを口汚く罵っただろう。無意識下でも謗るほど憎悪もつのらせたかと、恨みの根深さと己の深遠に潜む性根の暗い部分を賞賛した。
「理由を聞いているんだが?」
「ただ憎いからです」
 イルカの即座の応えに綱手は眼を剥いた。
「性的行為を強要されたからか? 大人気ないだろう。忍らしくもない。お前達も心ある人間だから、道具に成り下がれとまでは言わないが、適当に相手をして宥めれば済む話ではないのか。どうせいっときの欲求の戯れだ」
 イルカは綱手の尤も過ぎる理屈に、そうですね、と無気力に返しておいて、道具で良くて適当で良いなら自分も折り合いがついたのだと、過去に出した結論を反芻していた。カカシのそれだけでは済まない部分が最も煩わしく忌わしいのだ。
「……おぞましすぎて、俺には無理ですよ」
 潔癖を殊更匂わせて眼を逸らす。おぞましいと詰る対象の一番は、己の性癖と嗜好であるのにも関わらず。
 綱手はあっさり騙されてくれたようだった。
「本当に噂など当てにならんな。ちらほら聞こえていた恋仲説が覆されて、私はその方面では安心したよ」
 しみじみと綱手は言った。
「だがカカシとおまえが、目に余るいざこざを一度でも起こしたという記憶はなかった。残念だよ。他にはなにかないのか? 性的なこと以外の暴力とか。まだおまえは全部を語っていないと思うぞ」
 イルカはこれには応えたくなくて、首を横に振って唇を引き結んだ。他にはないと言う様に。
「正気にかえれば言いたくないことには黙秘を通すか。まぁ、当然だろうな。それはいい。廃人にはしたくない私の情で解毒の治療をしてやった。口を割らなければそのうち身体に効くだけだよ」
 これは厳格に告げられたが、イルカは動じなかった。肉体に加えられる拷問の類を恐れぬわけではなかったが、カカシとの間に起きる何よりもまだましなような気がしていたのだ。そして綱手の脅しよりも気にかかるものを求め、ようやく動かせる程度の首を左右にふる。眼を彷徨わせる。探した目的のものがこの部屋にはなくて、綱手に訊ねるしかなかった。
「五代目、今日は何日ですか?」
 隠す必要性もないことと判断されたのだろう、里長はありのままを教えてくれた。
「アカデミーが気になるか?」
「いいえ、俺はこの部屋にずっと閉じ込められたままでいいです」
「言われなくても……、まだ動けまいよ。処遇が決まるまではこの地下室に置くつもりだが」
 つまらぬ願いと唾棄されて、希望はあるか、と逆に問われてしまう。
「同胞への殺意は大罪だ。もっと気の効いた哀願や命乞いが出ないのか。口からうまいものを食わせろとか、酒が欲しいとか、何かあるだろう」
 イルカは僅かに口の端を歪めて笑った。
「……そうですね、動けるようになったら小便くらい自分でしたいですね」
 左の腕の一部からまだ輸液を注がれ続けている。側溝に流す排水の管のように下半身に繋がれた道筋からは、加えられる水分と同じ量の尿が押し出されている。頭がはっきりした以上、この状態はあまりにに現実的で、そう何日も耐えられそうになかった。
「動けるようになるまで、あと四十八時間かな。あのカツユの毒は最初から最後まで筋肉を侵す。不法に侵入した罰の一つと思えば楽なものだろう」
 イルカは期限を切られたことを単純に喜んだ。自由になったのは思考と口と、まだ首の部分だけではあったが、他もあと二日の我慢で取り戻せると思うと、今の排泄に対する憂鬱が軽いものとなる。
 イルカは里の一員としては失意のただ中だというのに、そこに気鬱をあまり感じていなかったのだ。どのような処分が下されるかとか、ここを出てからのことも考えなかった。むしろ此処から一生出られなくても良いとさえ考える。
 里長の力の及ぶこの地下室にはカカシの犬も潜んで来られぬだろう。月の光も届かない。狂ったようにカカシを求めてしまおうが、彷徨うこともできなくて、もうカカシと顔を合わせることもなくなるなら、死ぬまで留置されていてもいいような気分だった。
 そのようなことを考えていたら、里長が怪訝そうに自分を凝視していた。
「……そんな、皮肉な笑いを浮かべる男であったか、おまえは」
 綱手は俄かに腑に落ちない様子で言うと、いつまでもきさまばかりにはかまっていられない、と力なく呟いた。踵を反す後姿の火影こそ、イルカより消沈しているようだった。



 カカシが必要なだけの時を経て眼を開けた時、窓の外は薄闇だった。イルカのことを思えば不眠を覚える意識を無視し、体は睡眠を欲していたらしい。
 おもむろに起き上がる。部屋の空気はまた淀んでいる。真っ先に考えたのはイルカのことだ。それからアスマとの約束を思う。
 瞑想するように眼を閉じて、身体の回復を確認しながら指先までチャクラを行き渡らせる。
 床に脚を下ろし、小さく掌に種字を書く。噛んだ親指の腹からひとつだけ血の玉が浮く。控えめに弾けた白煙は床に小型の犬を呼んでいた。
 使役のパグ犬に日付と時間を訊くと、アスマが還るという日の宵の口である。友の常のコースは中忍等を交えての焼肉屋。仕上げはたぶん男同士で行きつけの居酒屋だ。二人の酔いがまわらぬうちに、任務で留守でなければ紅が加わるだろう。カカシはそう予想して、少し憂鬱な声になる。
「パックン、俺、アスマが誘いに来たら出かけるけど、頼みある」
「……次の任務には早かろう?」
 使役の筆頭は怪訝そうに言う。カカシは寝ぐせの残る髪をかきあげながら、仕事じゃない、と前置きした。
 パグ犬は、垂れた瞼のままの表情を変えない。反応の薄さは仕事以外は否、という意思表示に見えた。忍犬の直視から焦点を逸らす。後ろめたい心持ちで両手を合わせた。
「イルカ先生が、任務から戻ってるかどうか知りたい」
「飯を食いに外に出るのだろう。自分で自宅を覗いてくればよかろう」
 軽い非難が返る。これは至極当然の反応だ。カカシが休暇なら、使役らも当然身体と五感を休ませて然るべきなのである。けれどカカシはとても自分で行く気になれない。
「睨まれるのわかってて、顔合わせたくないでしょー」
「なるほど、むこうもカカシの顔など視たくはないだろうな」
 しかたがないのう、と呟くと、パックンは小走りに窓辺に寄る。窓枠に飛びつき前足が器用にサッシを横に押す。自分が通る分だけ出口を開けると、桟の上で振り向いた。
「家にいるか、確かめるだけで良いのか?」
 確認されたカカシは、使役の察しの良さに頭を垂れた。
「いなけりゃ現在地の捕捉を希望」
「了解、捕捉だな」
 テンポ良く返される。パックンの体躯が跳躍のために低く沈む。カカシは慌てて声を張り上げていた。
「それとっ……」
「なんじゃ、まだあるのか?」
 引き止められたパックンは、煩わしそうに後ろ足で耳を掻いた。
「もしもイルカ先生がまだ里の外にいて、なにかで困ってたら……」
「……助けろと?」
 パックンはやれやれ、と呆れ声を出す。
「大きなお世話ではないかの。それこそイルカは憤慨するぞ。何があろうとカカシの手だけは借りたくないだろう」
 鋭い指摘は、カカシの反論の余地を奪う。回復したチャクラも萎みそうだった。
「俺もそう思うよ」
「ならば……」
「……思うけどさ」
 自分が生きて還ったからには、イルカも里に息して居るべきだ。
 このひとつの鉄則がカカシの中に打ち立てられていた。
「あの人になにかあったら、なんのための術だ。うみのイルカは俺を恨みながら生き続けなけりゃならない」
 カカシの寝起きの眼が爛と瞬き、使役を見据える。
 パックンは後ろ背に、短く溜息した。
「ものを頼む態度ではないの。恋にうつつを抜かしている眼でもない」
「どーゆー意味よ」
「気は確かか? カカシ。それは敵に向ける眼だ」
 冷やかに評されて、カカシは固まった。薄暮の中に、使役の体躯が跳躍する。カカシは虚ろにそれを見送りながら、もう自嘲も出ない。醜く淀んだ思考を唾棄する気力もなかった。
 カカシは熱いシャワーを浴びるために踵を反す。間もなくアスマと若い部下達の気配が近付いてきた。
 もう一つの気配がアスマ等が寄ってくる前から近くにあった。それは目覚めた時から感じていた。なぜ、と相手に問い詰めるのは無粋なのでせずにいる。珍しくもない。火影直属の影達は、時々カカシらの与り知れぬ動きをして万事に備えているのである。
 見張られているのか、護られているのか、それとも何かを探っているのか影に潜む者の目的は不明であった。だがカカシは、思わずご苦労さんと声にして労ってしまった。なぜなら闇の部分に融けてカカシの傍にいた者は、先の茶の国の任務で、カカシの補佐を務めたばかりの後輩だったのだ。


2007.07.16



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