| イルカの眼前には、靄に似た色彩が広がっている。瞼は開いている筈なのに、眼には確かな像が映っていなかった。鮮明な視界が得たくて瞬きしたが、涙腺から少しずつにじむ体液を眼の縁から頬に追い出すだけで、視界は強度の近視のようにぼやけたままだ。 身体を何かが蝕んでいる。比重の高い悪質な溶液に、全身をどっぷり沈められているようなだるさとにぶい麻痺感がある。麻痺は頭の天辺から脚の爪先まで及んでいた。 「だいぶ中和した。そろそろ境界だな」 「声が出るようになったら、尋問ですか?」 「当然だ」 覚えのある声が上から落ちてくる。それは二種類の女性の声だった。誰、と特定するのが難しい。いや意識の端には声の主の名が浮かぶのに、脳が記憶野から抽出される音を言葉にするのを拒んでいるようだった。 思考がうまくまとまらない。四肢体幹は僅かな運動も嫌う。どこでも良いから動かさないと、同じ姿勢でいるのは苦痛である筈なのに、関節も腱も筋肉も全てがだらりと弛緩したままだった。 吸い込んでいる空気が良くない。鼻は塞がれていないが呼吸で得られる酸素がひどく希薄に感じる。不快な臭いが自分を包むこの空間に充満しているせいだった。きっと近くに汚物が散乱している。その悪臭を消すために薬品が散布されているのだろう、腐敗臭と消毒臭の混じった気体が辺りに煩く満ちている。それでもこの気体はイルカの自発呼吸には必要だった。 口元も弛緩している。噛み締めようと顎に力を入れるが、唇が閉じている感覚がない。胃は空腹を訴えているが口から何か入れたいとは思わなかった。生暖かい液体が口角から一筋顎へと流れていく。口中に溜まった唾液がしまりのない口端から漏れたのだ。 見えない圧迫感が、ふいとそこを撫でる。こぼれた唾液を布か紙で拭われたのだろうが、羞恥は感じなかった。置かれている状況が把握できずとも、今の自分は身体に加わる力の、何にも抵抗できないことだけはわかる。素肌に直接触る布地の馴染めぬ感触を払えない。鼻につく空気も拒めない。状況に逆らう力もないが、逃げたいとも思わなかった。 ただ一つ我慢がならないのは浮いては沈む意識下に、常に付き纏う尿意であった。 性器の先が鈍く痛い。異物が常に当たっているからだろう。肉よりも粘膜よりも硬いものが排泄器官をこじ開け下腹部の奥まで通されている。堪えの効かない排泄欲のまま陰茎の先端から黄金色の体液を垂れ流す。いくら出しても体内に水が湧く。飽和した水分は自動的に体外に出されてしまうから、いつまでもすっきりした切れ目がなく残尿感が残る。 蛇口を閉めるが如く陰茎を捻り、一度堰き止めることはできぬだろうか。 一度そう考えたら重い腕をもちあげ性器に触れたくて堪らない気分になった。けれど腕は変わらずピクとも動かない。意識が一点に集中する。身震いするようなジレンマに苛まれる。雄の象徴のとば口に嫌悪を覚えてしまったら、次にはおぞましい手の残像がフラッシュバックした。 急所を弄ぶ指の持ち主の顔が視界の靄の中に浮かぶ。なぜあの男の手を思うのかわからない。自分の手が動かないから、きっともう誰の手でもよくなっている。誰でも良いからそこを捻りつぶして今の不快を除いて欲しい。 しかし彼の指は拷問をよしとしない。あの指は、手は、それは優しく淫らに性器に纏わりついて、排泄以外の体液を誘うのだ。 男が与えてきた感触を克明に思い出す。途端、初めて此処から、この状況から逃げたいと願った。何処か遠くに逃れなければ、彼に犯され暴かれる。恐ろしく冴えた光は容赦なく自分を剥き身にして地べたに貼り付けるだろう。裸に剥かれ触れられれば忽ち己の本質は眼を覚ます。欲望に忠実な性器は天を向く。肌を粟立て、歓喜の声で雄のくせに雄を誘うのだ。 潤まぬ醜い箇所を陰唇に仕立て脚を開く姿を、あの男はきっと嘲笑う。上塗りした嘘の壁に亀裂はあったのか。そこから見抜かれていたのだろうか。物欲しげな顔をした覚えはなかった。それらしい誘うような言動は断じてしなかった。あの男にだけは知られたくない一心で。 いつかもイルカは思った。なぜ彼にだけ、とそんなに強く頑なに願うのか。 ――はたけ、カカシ。 その名は世界で唯一の禁句のようだった。音にするのは今は不自由と知っていて、それでも声にならないことにひどく安堵する。 声にしてはまずい。そう思うほどに、吐けば楽になるような予感がする。あらいざらい何もかも、隠蔽していた己の欲望の在り処の全部、いっそ言葉にしてしまえたらどんなに楽か。その衝動が湧いてしまうと、下腹の不快な残尿感も、陰茎の異物感も、鼻につく異臭もどうでもよくなった。 だらしなく弛んだ肢体を投げ出して、尿を垂れ流し、涎をこぼし、これ以上何を繕いたいというのだろう。 声帯が微かに震え、掠れた音が唇の隙間から洩れていく。 その自分の声を聴覚で拾った時、イルカは生まれて初めて言葉を発したような喜びを感じた。一度声にするとなんの自制もなかったように、たった今まで口がきけなかったことが嘘のように、言葉ははっきりと滑り出た。 いつを境に堰は切れたのか。圧倒的な力がイルカの発声を促していたのだ。ある時は憎悪を込めて、ある時は恍惚と、イルカは繰り返しカカシの名を発音した。 毒物の排泄と中和の過程において、一時はそのトランス状態が来ることは、綱手もシズネもあらかじめ心得ていた。 イルカが正気に戻る前から口がきけるようになることも判っていた上で、その刻限に二人揃って隠密の留置所にいたのである。即ち、解毒の途中も自白剤が効力を成す僅かな時間、イルカを尋問することにしていた。日頃どれだけイルカが実直であろうとも、今回の行動には疑う余地は充分にあった。 廃人にしてもよいならば、腕から落とす輸液なぞ中断してしまえるのにと、綱手は己の非道になれない部分が忌々しい。けれどこの中忍をあっさり切り捨てるのは、直感で間違いのような気がしてならなかったのだ。 イルカの自白を得られるタイミングは、ほぼ綱手の予定通りやってきた。 イルカは最初のうわ言をのぼせた。綱手はそれを聞き取ると、すぐにベッドの傍に椅子を寄せ、額に人差し指一本をあてがった。耳を欹て言葉を聞き取ると、二言目もまったく同じ言葉であったために、不快に眉間に皺を刻んで後ろのシズネを振り返った。 「……なぜいきなりカカシの名前が出てくるんだ。今のは聞かなかったことにするぞ」 「綱手様? でも嘘はないはずですよ。はたけ上忍に会いたいのじゃないですか? いいかげん知らせたらどうですか?」 シズネが言うのに、綱手は口をへの字に曲げた。くだらない、と言い切ってしまう狭量な自分にも腹が立つ。溜息で短慮な気を追い出して、再びイルカに話しかける。 「イルカ、おまえの目的はなんだ?」 イルカは今度は応えたが、それは相も変わらず上忍の名前である。 「私が聞きたいのは、あの男の名前じゃないぞ。なぜ此処に忍び入ったか、なにを探っていたか。黒幕はいるのか、いないのか、だ」 正気にはまだ遠いイルカに、いっそう剣のある口調で詰問する。シズネの言う通り、綱手の命は今だけは、絶対であるはずだった。 「まさか、カカシがおまえに命じたか」 「でもはたけ上忍は任務の真っ最中でした」 綱手はシズネの意見は聞こえなかったように、イルカに問いかける。 「なぜ病院の中に忍び込んだ?」 イルカはまだ視えてはおらぬだろう両目を泳がせ、一つ瞬きしてから言った。 「はやく、知りたかった」 すかさずなにを? という問いに、イルカはまたカカシの名をのぼせる。 「はたけカカシの、……死」 ゆっくりとだが明確に発音された言葉である。安否ではなく、死亡と言われて綱手は椅子を蹴り立ち上がった。 「なん……だと?」 「生きているのか、死んでいるのか、この眼ではやく確かめないと……」 綱手は想像外の物騒な応えに舌打ちした。 「おまえは刺客の手先か? 送り込んだのは、どこのどいつだ?」 「……だれも」 「なに?」 「誰の命令でもない」 綱手は焦った。トランス状態は束の間だ。限られた時間では聞き出さねばならないことが多すぎる。 「おまえの独断だと言うか?」 抑揚なく、そうです、と返事が返る。綱手は思わずシズネの反応に縋りたくなったが、彼女も虚を突かれたようで顔色を変えていた。 「どこがいい仲だ。噂などあてにならんっ」 綱手は驚愕する一方で、別な意味では安堵しながらイルカの告白を誘導する。 「おまえは、はたけカカシを消したいのか?」 イルカの、はい、という肯定は、暫し里長とその付き人を打ちのめした。同胞殺しは重罪なのだ。 短時間で繰り返される問答で、イルカは素直に憎悪と殺意を吐いた。そうしているうちに、次第にイルカの眼が焦点を取り戻す。 自白剤の効果は直になくなるだろう。顔色も整ってきた。あとは意識の改善と、筋力の復活を待つだけになった。 |