| 綱手が間者の件を騒ぎにしなかったのは、療養中の忍らを不安させないよう配慮したためと、捕えた者が思いがけない人物であったからである。 怒りも覚えたが、それよりもショックが大きい。間者は里の一員だったのだ。 半信半疑で木の葉病院の地下で待っていると、間もなくカツユの体躯が何もない空間から放り出たように現れた。ゲルのような体躯はプルリと揺れて、腹の中から人の体躯を押し出した。 カツユが運んできた肢体は、木の葉の忍服を着用している。部屋の真ん中のベッドに上向きに転がされた人相を眼で確認した途端、既に素性は確認済みとはいえ、綱手もシズネも、ありえない幻術を見せられているような感覚になっていた。 「……イルカ」 応えはないとわかっていても、綱手はよく見知った男の名を唖然とのぼせていた。うみのイルカの皮膚は紫斑に似たどす黒い色に変色している。関節は死体のように弛緩していた。見た目は既に腐臭もしそうだ。 生真面目な中忍は、アカデミーでも受付所でも信頼は定評のある男であった。綱手自身も彼の事務処理の能力や、几帳面で誠実な仕事ぶりをかっていた。なぜ彼が病院に忍び込んだのか、理由が何一つ想像できない。 「……綱手様、いったい、これはどういう……」 「本人に、聞くしかないだろう」 この部屋は地下二階にあるので、当然窓はない。出入り口は、綱手のチャクラが張られた格子の引き戸が一枚。光源は平たい無影灯が、低い天井にひとつあるだけだった。ベッドや水まわりがある理由は、拘束の必要な罪人や間者等にも、時には医療が必要な事態も起きるからである。 まさに今、毒で捕えた間者は治療が必要だった。綱手は無言でスプリングの固い寝台に横たわる身体を検分にかかった。胸を剥ぎ、心の臓の真上からチャクラを注ぐ額に、たちまち汗の粒が浮く。 ややあって、綱手は毒づいた。 「アカデミーの教師が、何者にたぶらかされたか。血迷ったか?」 いかなる理由で、火影直轄の施設に忍び込むような真似をしたものか。釈然としないまま、綱手はシズネに治療に必要な薬物の名を告げた。 シズネが出入り口とは反対側の壁を押した。クルリと反転した白壁の一部は、薬と衛生材料が並んだ収納扉に代わっていた。 里長直々に罪人の腕にラインが取られる。天井から下がるフックにかけられた輸液は滝のように落とされる。肝の場所には、二人同時に解毒のためのチャクラを注いだ。それでもまだまだ気付けにも足りないだろう。一晩で意識が戻るかどうか。二晩目で口がきけるだろうか。 これが正真正銘敵であるならば、致死量には足りない毒物の排泄に、躍起になることはない。通常解毒の治療を施さずとも、日にちが経てば意識も体力も戻る類のものなのだ。 そしてこの毒は、精神作用が大きい。やがて自白剤の役も果たす。五日も放っておくと、拷問せずとも当人は問われるままに口を割り、あらいざらいの情報を吐くだろう。自我を完全に失って。 「……信じられんっ」 綱手は廃人と化すイルカも想像したくなかったし、彼が自分を裏切るとはどうしても思えなかった。 「シズネ、イルカには近しい身内はいなかったよな?」 シズネは少しして、イルカの体躯を挟んだ向かい側で頷いた。 「御両親は九尾の事件で亡くなっています。奥様もいませんし……、もちろんお子様も」 「では抜け殻になろうが、死体になろうが、誰も引き取り手はいないな」 綱手の確認のための声は荒く、自棄気味だった。 解毒が間に合わずに人格が破綻しようとも、万が一でも謀反が発覚し、イルカに罪人の汚名がつこうとも、嘆き悲しむ肉親がいないということは、イルカににも綱手にも、里のためにも、救いであるような気がした。 ありったけのチャクラを注いで、血の道を辿る。寝不足の綱手はさすがに眩暈がしてくる。少しは休むよう促され、綱手は昼前まではシズネに任せることにした。 火影邸に戻る時、火影の一番弟子はひっそりと言った。 「……あの、綱手様、はたけ上忍が還ったら、なんと?」 後ろ背に問われた事柄に、綱手は返答に詰まる。振り向いてシズネを睨む。 「おまえも、あの阿呆な噂を信じているのか?」 我が里の戦力を担う上忍が、アカデミーの中忍教師に入れ込んでいる噂は綱手の耳にも入っていた。だが、独り者同士の遊興に、真面目なイルカがのるとは思えなかったので、真相を糾弾する必要はないと考えていた件だ。 そして、イルカはともかくとして、はたけカカシは御意見番にとっては大事な種馬だ。優秀な者が晩婚であることは、御意見番等の悩みの種であった。はたけカカシも早々に嫁を取らせ子を成させろと、口すっぱく御意見番の二人に忠告されている上忍のうちの一人である。もしも二人の常ならぬ仲が御意見番に知られれば、一時の遊びだろうが本気だろうが、悶着は起きるだろう。 「このくそ忙しいのに、余計な波紋は要らん。くだらぬことに時間を割く気はない」 綱手の口からは、つい否定の言葉がついてでる。日向の白眼を継いだ従兄妹らを、動物の勾配の如くかけ合わせるよう、日向家の長に今から命じる御意見番の周到さも、同性同士で刹那に性処理に走る輩も、同じように煩わしい。 血の継承を上からしつこく謳われれば謳われるほど、若い忍らは反発する。綱手もかつて好きでもない男と一緒にされそうになった。けれどあてつけに同じ女と寝たことはない。婚姻を強いようとする御意見番も御意見番なら、あまのじゃくに同性間の遊びに耽る輩も輩なのである。 綱手は特殊部隊のための通路を、来たときとは逆順に、木の葉病院から火影邸に向けて独り戻った。夜明けの気配が地下に届く術もなく、知らない間に朝は訪れていた。 朝日の差す執務室の椅子に腰掛けて、行儀悪くだるい下肢を机にのせる。椅子の背にそっくり返って視る太陽光は眼に煩く、視界にあるもの全てが鬱陶しく感じた。真夜中にカカシがもたらした朗報の断片に安堵したのも束の間だったと、うんざり肩を鳴らす。ひとつが片付くかと思いきや、あらたに起きてしまった事件は、はたしていかなる大事なのか。 わからぬまでも、綱手はイルカの回復を促すしかない。聞きたいのは、操り人形と化し、人格の失せた男の言葉ではなかった。実直な筈だった、うみのイルカとしての言である。 組んだ腕を解き、右の掌を開く。透明感のある白色の使役は、柔らかな身体を微かに膨張させると、執務机にゆっくりと移動した。 「……カツユ、エビスに伝えろ。理由がわからんうちは、イルカは私の急ぎの用事で外国にやったことにする。すぐにアカデミーと任務受付所の勤務調整が必要だ」 カツユは首の部分をグルリと回すと、水が弾けた様に机の上から消えた。 「おまえは、……裏切り者ではないよな」 綱手は誰もいない部屋で、常日頃の男の真摯な面差しを思い浮かべて頭を抱えた。 カカシの里に戻ってからの最初の仕事は、負傷した面子の搬送である。口述の報告を簡単に済ませ、火影邸の地下から暗部用の抜け穴を通り、木の葉病院に入った。 ベッドに寝かされ、輸液に繋がれた狸男の、もとから細い両眼は、いまにも閉じそうだった。それでも、カカシにまだ憎まれ口を叩く。 「俺はおまえの倍の休暇をもらう。おまえは休んでいる俺の分まで任務を消化しろ」 それだけ強気なことが言えれば、人より休まずとも良いのでは、と思う。先に負傷を理由に還した二人がまだ眠り続けているというのに、月輝は本当にチャクラ切れで動けないのかと疑うほど血の気も良かった。 二番目にやらねばならないことは、報告書の作成であった。 裏の仕事の書類作成は、火影邸の地下にある特殊部隊の待機所でやった。面をつけた輩が入れ替わり立ち代り出入りするものの、暗部の面子は世間話で交流を図ることはない。彼等は一様に皆無口だ。狸の口数の多さは例外なのである。 カカシも無論、誰にも話しかけたりしなかった。 黙々と墨のついた細筆を走らせながら、久しぶりに全責務を負った任務を振り返る。ひと昔前は、結果が凱旋であったなら、普段の猫背もしゃんと伸びたというのに、我ながら今回の報告書の作成は記述のいちいちが眼に痛かった。 味方に殉死者がいなくても、首をかいた数がやたらに多いことは、殺戮者の自覚を強めるばかりで胸を張れたものではなかった。時を費やしたせいで茶の国の民間の被害も大きかった。 家に帰れば外の陽をカーテンで閉ざし、自棄酒をあおり、翌日までふて寝でもしようと思う。綱手の機嫌は、一件落着の割には悪かったし、会いたい人には気軽に会える立場ではなくなっている。 特殊部隊の忍服のまま短い転移を繰り返し、火影の執務室に赴くと、シズネだけがポツリと袖机で仕事をしていた。 機嫌のよろしくない里長の所在を確かめる気にもなれず、シズネに報告書を託し家に戻った。明日からもちろんカカシも五日ばかり休暇である。一緒に過ごす相手もいないのに、これは長過ぎる休みであった。久しぶりに人間の寝床で寝られるだけ寝ても、部屋の掃除と洗濯、買い物をしても、まるまる五日は必要がない。 (……なんで五日間?) どんなに任務が長引こうと、五日という休暇は倒れたわけでもないカカシには破格の待遇であった。機嫌の悪い綱手がなぜ多目の休みを与えてきたのか理由がわからない。それとも、不機嫌はカカシの勘違いであったのか。 血糊を繰り返し吸い、雨でその都度洗われ、よれよれになった忍服を脱ぎ捨て、半裸のまま埃がうっすらと膜を張る部屋の窓を開け放つ。日光浴にはもう冷たすぎる外気にひとつ身震いした。その時、部屋の玄関前にふいと覚えのある気配が現れた。 名を呼ばれる。鍵をかけていないのを知っていたように、来訪者はカカシの応えも待たずにズカズカとあがりこんできた。 「……生きてたか」 泣き笑いに表情を歪めた髭面が、カカシの前に立った。 |