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満月の夜だけの-21-



 白に近いはずの壁面が、イルカの眼には黒々と不気味に聳えて見えた。時間が遅くなり内からの灯りも少ないせいなのか、それとも心中を写したものか。立ち位置が裏手なので、余計に暗くひっそりと感じるのか。
 建物の壁は文字通り障壁としてイルカの前にあり、阻むような威圧感がある。こちらに向かって傾いてきそうな錯覚は、数々の後ろめたさのせいだろう。
 腰のポーチから細いワイヤーの端を手が探る。利き手に絡めて引き出し、左掌の中の金属に結ぶ。ワイヤーの先端に三本の鉤が付く。
 最上階の雨樋、窓の格子を下から眺め目測する。そこから横に視線を流し、通風孔の位置までを測る。
 右の腕が一度だけ回旋した。狙った位置に鉤が届き、旋回したワイヤーが撒きつくと同時、足の底は音もなく地を蹴っていた。



 五代目火影は、執務室の机で肘をつき手に顎をのせ船を漕いでいた。首が上下にカクリ、カクリと揺れるので、額が積まれた書類に時々ぶつかりそうになる。
 その様子に苦笑したのは、横で仕事をしていた付き人のシズネであった。
 執務室のドア前には、夕飯でたいらげた店屋物の空いた丼が重なっていた。ここのところ、暗部に探らせている不穏な一味についての情報がこまめに届くのと、なかなか決着をみない茶の国の件が綱手を就寝のための私室に退き込む時間を遅らせていた。
 不平は言うが、綱手はよく自分に課せられた重責に耐えている。そう思うシズネは、すぐに声をかけて起こせなかった。昨夜は茶の国からの連絡を待ち続け、徹夜であったのだ。
 茶の国に送った暗部からの、日報が届かなかったのは一昨日が初めてで、それが最終的な決戦に突入したことを知らせるものか、敗北や全滅を意味するものか不明であった。昨日は動けぬ負傷者が独り送還されて来た。送って来た者までチャクラ切れで眠り続けているために、現場の様子がまだ詳しく聞けずにいる。負傷者の方はうわ言は言う。雨はやんだ。もう雨はうんざりだ、と。
 茶の国からは依然なんの連絡もない。戦況がわからなぬじれったさであらたに連絡係として一人送り込んだのが今日の昼前である。そしてその男からもまだ何の知らせも届かなかった。
 シズネは束の間の休息を取る綱手を起こすのが躊躇われ、肩に予備の半纏を重ねていた。綱手が跳ね起きたのは、その直後であった。
「……あら、起きたんですか?」
 半纏を床に落としてゆらりと立ち上がり、綱手はシズネに苦く言った。
「どうやら、まさかの備えに触れた者がいるよ」
 眠気は一気に吹き飛んだようで、目は手元を見据える。いつの間にか綱手の掌には、小さな白い生き物が蠢いていた。綱手の使役が寄越したのだ。
「カツユ……? なにがあったんですか?」
 問いかけるシズネに、綱手はこんな時に、と苦虫を潰してみせる。
「……間者だ」
「どこに、ですか?」
「不届きにも私の別邸さ」
 別邸、と言われてシズネの顔は曇る。綱手が里長となった以上、その機関は重要性を増していた。彼女がそんな呼び方をするのも量れるのだ。
 万が一、いや億万分の一の確立も間者が侵入する確立がなかろうと、綱手はその施設の中に警邏を置かずにいられなかったのだ。
 備えは粘液で、体長は蟻ほどの蛞蝓が歩いて引く警戒網であった。そして極小の蛞蝓はいま綱手の手にいるのと同じ、大蛞蝓の分裂体である。
 蛞蝓が縦横無尽に残したチャクラの網の目は、蜘蛛の糸より細くて、よほどの手練でもまず視力で事前捕捉はできない。
「暁でしょうか? 何人です?」
 問われて綱手は首を振り、肩を竦める。
「侵入者は一人。暁じゃないよ。癪には障るが、まぁ慌てることもない。既にカツユの毒で動けまい。着いて来い、シズネ。意外な鼠だぞ」
 綱手は大股で下駄を苛立つように鳴らして執務室を出ようとしていた。もちろん、シズネも遅れずにあとに続く。
 二人がドアを開け放した途端、背後で白い煙が床からのぼった。その気配に今出たばかりの執務室を振り返る。綱手の仕事机の前に、特殊部隊の装束が一人、現れていた。
 暗部の装束はグッショリと濡れていた。足元に水溜りができそうなほど。
 刀が掠めた傷や薄汚れた装束に、綱手とシズネの眉がひそまった。
 こちらを振り返った面の様相を一瞥し、生きていたか、と綱手は思わず呟いた。
 この任務に放つ前、その男にいつもの覇気はなかった。もしや死地に追い込んだかという懸念はあとからわいた。だが底力と運はこの男を幾度も戦場から還す。
 男は二ヶ月ぶりに里に帰還したというのに、何の感慨も表さず平坦に言った。
「……報告が遅れまして、森乃イビキを迎えに来ました」
 綱手は戦況報告をたやしたことを咎める気にはなれなかった。男の覇気がないのは任務前と同様で、おまけにチャクラは既に底を尽きかけているのか、あまりにも気は薄い。その希薄さは、綱手が実体のない分身かと一瞬勘違いした程だった。
 だが紛れもなくそれは男の本体だった。
 頭皮に萎れて張り付いた体毛は一見憐れを誘い、いつもの逆立った態を成していないだけに憔悴しているように見える。長いこと雨にさらされ続けたのだろう、血の気のないふやけた皮膚から、死人のように体温が低下しているのが覗えた。
 綱手はそれでも命じなければならなかった。
「よし、連れて行け。今度は最後までぬかるなよ」
「御意」
 一礼して転移のための印を組みかけてから、暗部の男は怪訝に首を傾げてきた。
「五代目、そんなに急いでどちらへ行かれるところだったんですか? 何かあったんですか?」
 綱手は半ば呆れながら答えた。
「今のおまえに心配されたくないね。なぁに、そっちよりも先に片付くさ」
 男は面の下で微かに笑ったようだった。それから頷いて、煙とともに消えた。



 思い余った末のイルカの策は、木の葉病院の病棟内を虱潰しに当たることだった。
 カカシの姿がなければそれでよし。あれば病態を窺う。つまり生死を見届けるのだ。
 イルカは目的の中の最悪にぞっとしながら、四階建ての病院を、最上階から確認してまわった。通風孔のダクトから進入し、天井裏に入った。各部屋の通気孔から傷病人の容姿をあらためる。高さ十センチ、幅二十センチ程度の狭い視野から覗ける範囲では、時に寝台に横たわる人物の全貌が見えず苛立った。
 狭隘な空間はそれでなくとも四肢が思い切り動かせない。身体に纏わりつく埃は気管を刺激して煩わしい。次第にいがらっぽくなる喉から出そうになる咳を抑え、それでも辛抱強く病室の全部をまわらずにいられなかった。
 結果、カカシはどこにもいなかった。この病院にいない、となると、まだ戦場にいるのだ。生死はまだ定まらない。それとも既に遺体となり茶の国で処理されたのか。
 イルカは疑念が晴れぬまま、疲労だけ抱えて病院から抜け出そうとしていた。
 上から階下に移ってきたので、回収したワイヤーは不要である。一階の屋根裏で、通気口を通じて僅かに洩れてくる、弱い月明かりを目指して匍匐していた。
 手に異様な感覚を感じたのは外気に届く寸前だった。それは腰を伸ばせぬ空間とはいえ、これくらいの時間這いずり回ったくらいではとても考えられないものだった。凝りや疲れでは起きないものだ。
 何が自分に起きていたのか一瞬わからなかった。だが痺れが皮膚のうちの晒された手指から始まったのはわかる。少し前から指先に、掌に、埃とは異なるものが少しずつ少しずつ付着していたようなのだ。
 正体が不明の汚れであった。ほんの微かに冷やりとした感触があったかもしれない。水っぽさや粘つきを感じたかもしれない。けれど自分の流した汗で天井の板が微かに湿ったせいかもしれないと気に留めなかったのだ。
 異物への感覚は些細過ぎて、それより重く大きな目的に注意が行き過ぎていた。
 手から始まった痺れ感は、急速にそこから広がっていたのだ。痺れは自覚から秒刻みでイルカの四肢、体感の動きを奪う。
 腕が、次いで脚が強張り、関節が硬化する。内臓の全ての動きも止まるのではないかと思うくらい、呼吸が苦しくなってくる。目も霞んできた。
 うつ伏せのままであったので、四肢を張れなくなったイルカは、埃だらけの天井板に顔面を着ける羽眼になる。その寸前、蟻のような大きさの、体の柔らかなそうな生き物がイルカの目の前をチラチラと横切った。
 小さな生物の動きを靄のかかったような視力で追う。
 蛞蝓だ。そう認識できたのは、その蛞蝓がイルカの視野で静止したからだった。
 蛞蝓はそれきり動かぬままで、見張りでもするように、ジッとイルカを睨んでいるようだった。


2007.03.17



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