| 職員室の窓の外をイルカは憂鬱に眺めた。出勤時に降り出した水滴は、この季節特有の冷気を孕んで窓下の散りかけた秋桜を打っていた。ひと雨毎に寒気を連れてくる冷たい秋雨だ。イルカはふと席を立ち窓に寄り、細く開けたサッシの向こうに手を伸ばす。掌に当たる雫はたちまちそこから体温を奪っていく。 雨にけぶる校庭の隅の植え込みにも、塀の隙間にも、花壇の小さな葉陰にさえ獣の気配も眼もないのを確かめながら、雨粒を低温に強張る指で握りつぶす。どうせ自分の能力では存在さえ気取ることもできないのだ。探るのも無駄かと苦く自嘲する。 「おーい、さみーよ、窓閉めろ」 「なにしてんだ、イルカ?」 後ろから同僚らに言われ、濡れた手をひっこめ窓を閉めた。それなりに気温は低くとも、この時期からはまだ暖房器具は用意されていない。けれど何も暖を取るものがなければいささか涼しすぎる。半端な秋と冬の境目だ。 イルカは尻ポケットからハンカチを出し、濡れて冷えた手を拭い席に戻ると、次の授業の教科書を揃えながら言い分けた。 「……よく降るなと思って」 「そうか? それほど土砂降りじゃねーだろ」 「茶の国よりてんでマシだ」 聞き馴染んだ国の名の響きがやけに耳障りで、イルカの相槌は鈍い頷きになる。まだ降っているのか大変だなと、同情的な発言がどこからかあがる。 近頃方々で話題になる外国の天候だ。イルカは朝刊の見出しを毎朝浚う。気付くと眼を皿のようにして茶の国の記事を探している。他にあてがない。 いったん任務に携われば、忍社会の情報網はどのメディアより確実で早かった。けれどイルカは茶の国に仕事で介入していない。正規部隊のことならまだしも、特殊部隊に関わることで里長に質問するわけにもいかず、猿飛アスマにその後の何かを尋ねるのもおかしなもので、聞けない。カカシのことをまた糾弾されることが耐え難くてこちらが避けているのだ。紅の方はあの日からイルカの顔を見ると困ったような顔をして、笑いかけてくるだけだった。 したがいどこからも誰からも正確な状況が得られずに、イルカは少なからず焦慮を覚えている。知ってしまったからには、木の葉の同胞の戦況が気になるのは当然だった。それが越権でも物事の詳細が何一つわからぬのは精神衛生上よくない。苛立ちも募る。声に出して障りのない事柄であるならばとっくにわめき散らし愚痴の一つもこぼしているだろう。 そして胸中に氷水を打たれたような心地になる、アスマのセリフが頭から放れない。 ――……ただし、奴が、生きて帰ってこられたらの話だ。 カカシに限ってそんなことはあるものかと、忍としてのレベルに限らず性格の抜け目なさやしぶとさまで並べ立てては、ありえない、と結論付ける。 還ってくるはずだ。これまで通りに飄々と。のうのうと。 カカシを思うと身体中に蓄積するものの不快さに眉が寄る。自分のしてきたことを口にして認めることは不可能だから修復なぞ望んでいない。最初に二人の間に亀裂入れたのはカカシの方だ。 そう言い聞かせて考えまいと平易を保つ。平易であろうと努力をしている。努めねば冷静を装えないとはなにごとだろう。カカシの安否など気にしていない。どんな相手でも、謗り合いが最後なら後味が良くないので過敏になっているだけだ。 そう思い、思考を数式の答えの如く理詰めで並べる自分に寒気がした。これは冷静な自己分析とはいえない。無理矢理客観的になろうとしているだけだと気付いてなおいっそう心中が曇る。 「あれ、茶の国って、雨あがったんじゃなかったか?」 横で呟かれた声にイルカは思わず椅子を蹴った。 「新聞の記事か? 今朝はなにも載ってなかったぞ」 身を乗り出し詰め寄った同僚の口は、イルカの勢いに気圧されてボソリと、たぶん、とはっきりしない返答をする。 「あー、誰か言ってたような、今朝。えーと、茶の国がやんだと思ったらうちか、とかなんとか……」 「誰かって誰だ? 任務であっちに行ったのか?」 「さあ」 「確かか?」 「わからねーって」 「ちょっと、イルカ先生」 くの一クラスの女教師が斜め向こうで片手をヒラヒラと振り、こっちこっちと招いてくる。途端、午後の始業の予鈴が鳴る。イルカに詰め寄られていた同僚が肩を竦めて、女教師を指差した。 イルカは数歩進んで同じ歩数下がる。机の上の教本と巻物を抱え、また女教師に近寄ると彼女も授業のための教本を両手で掴んだところだった。 「それ、出所うちの旦那」 病院からよ、と囁かれて納得した。彼女の夫は医療忍で、通常木の葉病院に詰めている。病院という場所から咄嗟に連想したのは動けぬ負傷者がやむなく押し込められる白くて薬臭い殺風景な場所だ。 「もしかして担ぎ込まれた人からの話ですか?」 「そうかもしれないし、違うかも。出勤した時びしょ濡れになったもんだから、そういやって、悪態ついでにポロっと口から出ちゃって」 「詳しくお聞きしたいんですが」 「やだ、なにも詳しくなんか知らないわよ。夫婦の間でも任務上の守秘義務あるもの」 「でも茶の国の雲行きを知ってるんでしょう」 「そうよ、お天気の話よ。私が旦那から何か聞いたなんて言わないでよね。たとえ空模様一つだって漏洩扱いされるかも。失言。弛んでたわ。でもなんでそんなにムキになってるの? 知り合いでも住んでる?」 つっこまれてイルカは怯む。職員室の戸口に向かう既婚のくの一は、不審そうに首を傾げながらイルカを覗き込んでくる。 「そうです、知り合いが茶の国に。それで…」 茶の国から誰かが搬送されたのか。だとしたら患者は誰か。上忍か、名を明かせぬ暗部なのかと、聞きだせるものならというイルカの欲求は強く、くの一を追うかたちで職員室を出た。そして次々とクラスへ教職員達の散る廊下の壁に、猿飛アスマが場所的に火をつけられない煙草を噛みながら突っ立ているのが眼に入り、かたまった。 「へぇ、知り合いねぇ」 イルカは明らかに揶揄のために呟かれた言葉を無視し、女教師に、あとでと言い置き左右に別れた。逃れるような早足を、アスマの歩幅はすぐに追い越し前に立ち塞がった。 「御用なら、休み時間か放課後にお願いします。午後の授業が始まりますから」 巨躯の向こう側にすり抜けようとしたイルカを、アスマの分厚い掌が捕らえてしまう。グルリと向きを反されて鷲掴まれた肩は、ベストの上からだというのに恐ろしく軋んだ。 「時間はとらせねぇよ。聞きたいことがある」 「なんですか?」 アスマの顔は紙巻を噛み切りそうな渋面だ。二日前の怒気とはまた異なる空気を纏った大男を、イルカはイルカで剣呑な面持ちを隠せず見上げる。 「カカシの犬は?」 犬、と言われた途端、イルカの表情もアスマに負けず劣らず険しくなってしまう。 「アスマ先生は、知ってらしたんですか」 「そうだ。傍にいたろう! 奴の忍犬がっ」 怒号のようなきつい口調と廊下の果てまで響く音量に、イルカは思わず空いた手で耳を覆う。 「俺には関係ありませんから」 「いつからだ」 「なにがですか」 「いつからいなくなった? 見えねぇんだよ」 「……いない?」 イルカはあの晩まで存在さえ知らずにいた犬の気配を、無駄とわかっていながら視力で探してしまった。ぐるりと百ハ十度向きを変えた身体で、廊下の窓から外を見渡した。視たままを言えば、先刻も確認した通りだ。秋雨が降り続けるアカデミーの校庭には鳥の一羽も飛んでいない。 「そう、ですか。もういないんですか。だからなんだって言うんですか」 刺々しく吐き捨てるイルカに、アスマは今度は静かな声で問いかけてくる。 「いつからいねーのか、知りたい」 「俺がわかるわけないでしょう。あんな見張りをつけられてたことだって、一昨日の夜まで知らなかったんですよ」 「見張りって言い草はねーだろ」 「じゃあ、ストーカーだ」 「意固地になるな、わかってることがあれば教えてくれ。一昨日の晩はいたんだな」 念を押されてイルカは頷いた。 「一昨日俺に噛み付いて、それきりですよ。霞が薄れるみたいに消えて、朝になっても何処にも見当たりませんでした。でもその前だって俺の目には見えませんでしたから、いついなくなったかなんて正確にはわかりませんよ」 アスマはわかった、と一言言うと、イルカの肩を突き放すように解放した。スタスタと歩き去る幅の広い背中が心なしか力なく視えた。 「犬が、いなくなったから、だからどうしたっていうんですか」 思わず問いかける。いや問わずとも朧に悟るものがイルカにはあったのだ。 「それをおまえが俺に聞くか?」 ぐんぐん開いていく距離でもアスマの声は語尾まで通った。 「……かんけーねぇんだろう。奴がどうなろうと何処で野たれ死のうと、おまえのせいじゃねえからな」 イルカに応えの術はない。怪力に寄ってしまったベストの生地ごと痛んだ筋肉もほぐすように叩く。疼痛は肩峰のみに限らず、未曾有の強さで思考を圧搾し、打擲した。鎮めるどころか堪える手段もわからなくて漠然とただ肩を摩る。わかっているのは心身の痛みに限らず、アスマの言葉が暴力的に聞こえるのは、他者のせいではないということだ。 アスマが振り向いた。 「イルカ、おまえなんで噛まれたんだ?」 聞いておきながら、イルカの答えを待たずにアスマは廊下の端で消えた。 授業のあとの受付業務がこんなに煩わしいのは初めてであった。同僚は結局イルカの疑問を満たしてはくれず、それが当たり前であるというのに、謎の発端をほのめかされお預けを食らったような恨みがましい気持ちになってしまった。アスマが滲ませていた尋常でない空気は、確実にイルカに染っていた。 行き過ぎを承知で思いついたのは、もと教え子の春野サクラの顔である。五代目火影に弟子入りしてからは、サクラの修行の場は、主に火影邸か木の葉病院の何処かであった。週の前半は病院に泊り込みの筈だ。差し入れ持参で陣中見舞いがてら、それとなく急患の話を聞くことができないかと、我ながら姑息なことを考えた。 同時刻のシフトになったのがまたコスギであったことも、イルカの神経に障った。コスギはもちろんあの夜のことを口にこそしなかったが、それは人目があるせいだろう。業務の合間にチラチラと盗み見られる居心地の悪さ。何か言いたげに苦笑する口元を、見て見ぬふりをして勤務が終るのを待った。 交代の夜勤が着くとイルカはコスギの呼びかけに、急ぐからと言い置いてさっさと退散した。またあのような所に誘われるような隙はみせまいと構えずにいられなかった。 アカデミーを出てまず甘味処に向かい、女の子の好みそうな色味も綺麗な花形の焼き菓子を買った。差し入れが雨に打たれぬよう傘の下で抱え歩く道すがら、夕飯時も過ぎた木の葉茶通りに子供の姿はないのを確認しながら歩いた。生徒に会う可能性は薄いのに、出くわした時にする菓子折りの言い訳を考えていた。 そして時々後ろを振り向いた。あとを着けて来る犬の姿も気配も、感覚を精一杯研いでも悟れない。それはカカシの監視外にあるという安堵をもたらす要因にはならず、不吉な訃報の前兆としてイルカの背を押した。自然早足から走駆になり、非常時でもないのに短慮にも町並みの屋根上を駆けていた。 ものの五分もせぬうちに着いた木の葉病院の裏口は、夜間の急患用の赤い照明が点されていた。小さな窓の向こうで見え隠れする受付の事務員に声をかけ、教え子の所在を尋ねる。すると運よく休憩時間だという春野サクラは白衣を着こんだままで、夜間の待合室に間もなく現れた。 「イルカ先生?」 声音の嬉々とした明るさに、うんと頷きながら、菓子の入った箱を差し出す。 「近くまで来たから。これ差し入れな」 「わー、やった。うれしー」 受け取る手はかさつき荒れていて、爪は短く切られ艶がない。いつも綺麗に整っていた眉が左右対称の形を成していず、抜き残しの産毛が疎らに散っている。ややぱさけている髪も手入れが行き届いていない。修行と勉学になりふりかまっていられぬのがありありと見えた。 元気かとか、頑張ってるなとか、ありきたりの問いかけしか思いつかない自分をイルカは呪った。教え子を頼る愚かしさもたちまち後悔する。真面目に鍛錬に身をいれる者に、私用の頼みはかなり憚れる。 待合所の空き椅子で菓子を広げて喜ぶ表情の上に思わず手を乗せて撫で付けると、子供じゃないんだからとサクラは口を尖らせた。 「大人は菓子でそんな喜ばねーだろうが」 「あら、乙女だから甘味に弱いのよー。ありがと。みんなで頂くね。先生…どうしたの? 少し痩せた? 忙しい? でも会いに来てくれて嬉しい」 病気じゃないでしょうね、と下から今度はサクラに手を当てられる。頬に擦れる少女の掌は水分がなく、ささくれが頬を軽くひっかいた。 ――最近、茶の国から搬送された人は? ――カカシ先生は此処にいないよな? 喉まで出掛かる言葉を、視覚にあるサクラの荒れた手が何度も塞ぐ。 イルカはついに聞けずに救急外来の待合所をあとにした。そこに居座るその間に、それらしき人物が運ばれて来なかったことは、イルカの神経を宥めもしなかった。 |