| あらゆる匂いの粒子が雨に流されやすい。嗅覚はあまり役立たない。代わりにどんな些細な気配も逃さぬよう神経を研ぎ澄ます。微かな痕跡も見逃さぬ視力を振るう。 そうするには目が足りないと判断した夜半、カカシは私用で里に置いていた犬を呼び寄せていた。 口寄せのために組んだ指を気の流れが舐めた。家屋の劣化により入り込む隙間風のように、細く平たく空気が踊る。囲炉裏の火が音もなく揺れたあと、板の間に胡坐をかいたカカシの傍らに眼球の大きな犬が現れた。 体毛は灰色、使役の中で一番眼の良い犬だ。引き寄せて頭頂部のそこだけ黒い鬣をワシワシと撫で付ける。ごくろうさんと労うと、カカシの腰にあるポーチに鼻先を押し付け褒美を強請る。取り出した兵糧丸は湿度のせいでやや湿気気味であったが、犬は文句も言わずに平らげた。 「……おまえ、あの人の匂いがするなぁー」 微かな残り香を嗅ぎわけおどけると、犬の口蓋がニーッと歯を剥き出してくる。 「なんだよ、笑うなよ。休む間がなくて悪いけど仕事だ。その前に……」 カカシは小さな動作を数度繰り返し、面の下の左眼にイルカの像を映していた。犬が視たの最後の姿だ。術に侵された偽者でも今は嬉しい。イルカの瞬いた睫毛の下の黒瞳は、犬が消える直前の霞と残像を茫然と、そして寂しげに眺めていた。 窄んでいく像の終りが暗闇に変わりゆく。すべてが見えなくなる前にカカシは潔く解術した。密やかな邂逅もこれで最後だ。もう里に使役はいない。式さえ放つ機会はない。 現の視界では出入り口の木戸が震えている。窓の外は細かな霧雨が風に舞っていた。家は風雨に打たれ傾きかけていて、僅かな風にも軋みをあげる。仮住まいは古いだけに悪天候に歪んだ地盤に正直だった。 火にかけた鉄鍋を傾け囲炉裏に湯を流す。種火が絶たれる。燃えかすの狭間から立ち上る白い煙が細く屋根裏へと伸びていき、それは間もなくフッツリと切れた。消えた煙と入れ替わるように人影が天井から音もなく降りて来る。 カカシの犬を一瞥した青年は、心得たように頷きながら、もう思い残すことはないですか? と聞いてくる。 「つまらないこと聞くねぇ」 カカシは使役を促すと、ところどころ反った床の継ぎ目を軋ませることなく立ち上がった。腰を探り胸を探り、装備をざっと点検する。最後にいかつい爪のついた手甲をはめる。そうしているうちに灯りのない家屋の隅の暗がりに、更に濃く黒い染みが湧く。同じ装束の姿がもう一つ増えていた。 目線で頷き合った一瞬後、古びた家屋は無人となっていた。 四人の男等が他里に忍んでひと月経っていた。 月輝以下、三名の木の葉の特殊部隊である。 彼らは茶の国から里内に移ろうとする忍を一人として取りこぼさず首を刎ねた。雨隠れの里民には術をかけ、解術されぬように使役の蛾をつけていた。彼らの眼には茶の国へと続く空が雨雲ばかり広がっているように見えただろう。劣勢の報告をしてくる者もいないのだから、先月まで度々援軍を打診してきた『雨降らし』の形勢は逆転したように思われていた。一時しのぎとはいえ、月輝は雨隠れの情勢を改変し、訃報も戦況も里の中枢に届かぬよう捻じ曲げることに成功していたのだ。 潜んでいる雑木林の中に掘った穴倉の住み心地はよくもなく悪くもない。たまに街道の旅宿で風呂と人間らしい飯をかき込む他は、夜も昼も月輝は獣でいた。元来、人型をとるよりも獣に変化しているのを好む男であったのだ。護衛の形を取る他の者が時に本物と区別がつかぬほど、月輝の変化は完璧である。少し体型が大柄過ぎる他は、誰が見ても狸そのものだ。 月輝は自分の口にした通りの負担に辟易しながらも、己の酷使にある種の快感を覚え狸の口で日に何度か薄ら笑いを浮かべていた。 暗示が露見した瞬間が自分の最後と知っている。彼は既に親もなく、たまたま兄弟もいなかった。恋もしなかったので妻も恋人いず、そんなわけだから子もいない。 遺していく者がいないとはなんと気楽な死か。幻術の才を教師に見込まれた時から、現場で絶えることは想定内であった。アカデミーを出たとたんに放り込まれた場所は、日があまり当たらぬ山中の鍛錬所だ。そこにいる者たちはすべて精鋭であり、生に執着のない輩ばかり。楽しみといえば休みの日に惰眠を貪ること、任務のあとの酒と生殖欲の解放だった。 束の間の享楽のうちもっとも月輝が好んだのは、飲酒である。アルコールによる酩酊は、幻の使い手となってから、決してはまらぬ幻術にかけられたような心地にさせてくれるのだ。自分が幻術にかかればこのように視界は歪み、地から足が離れたように揺れるものかと面白おかしかった。 過度の飲酒は月輝の肝を硬化させていたが、それで床に伏せるよりも、任務での殉死が早いだろうと考えている。 彼に柵はなかった。心を寄せる人もない。一人だけ、あの白銀の髪の青年の父親は、気にかかる存在ではあった。嫌いではなかったが、好きだったのかと問われれば、そうでもない。十代の自分は戦中で彼の一太刀に救われたことがあり、それは悪戯に月輝の生を延ばしてしまったからである。 面をつけて味方の正規部隊を高い位置から見下し、弱者を庇護し、崇められ、恐れられる位置にいながら受けた情けは月輝の自尊を傷つけてもいた。 よりによってあの男の息子が、里の闇の部分に染まるとは考えもしなかった。勤まるものかと侮る月輝の眼を他所に、慈愛と仲間意識の強い男の遺児は、とてもあのはたけサクモの実子とは思えぬ冷淡な殺戮者に成長したのだ。 しかしカカシはやはりあの男の血をわけていたのだろう。世も人も睥睨していた筈の特殊部隊の猛犬は、尻尾を丸めていま他人の心を恋うている。 歯がゆさと苛立ちは拭えずとも、今のカカシに対し既に諦念も憶えている。血は争えぬものだという呆れのもとに。 父親の死を機に厭世していた筈の少年は、もういないのだ。 どいつもこいつも腑抜けばかりだと詰る傍ら、自分も似たような称号を刻んで終りそうだと月輝は感じていた。 結界に異物が刺さったのは未明であった。隠れ里に椀のようにかぶせたチャクラの膜にも裂け目が入った。巧妙に隠し貼った結界札が一枚、また一枚剥がれ落ちていくのが自分が仕掛けただけに手に取るようにわかる。雨隠れの忍の里を堀のように囲んだ川の縁、葦の茂みに、川砂利の隙間に、ハラリと散る紙切れは燃え滓の灰のように粉々に崩れて風に飛ばされる。 その現象はまさしく月輝のチャクラの限界を示していた。 月輝は狸の姿のまま溜息した。地中に土竜のように潜んでいた味方が身じろぎする。雑木林から一斉に野鳥が飛び立った。 音もなく忍び寄る殺気に、同じく無音で抜刀したのは同胞が先だ。曲者かと誰何されたが、もちろん答える仲間はいない。 敵も忍だ。鼻も目端も利く輩は無数にいよう。里に張り付いた異臭と異変に気付いた小隊がいよいよ調査のために乗り込んできたのだ。雑木林の端から噴水のように水が沸き、地面が泥状と化したのは間もなくだった。月輝が潜んでいた穴にも水は押し寄せてきた。 水攻めに最初に雨忍の前に飛び出したの丸みのある影だ。翻る長刀が虫も逃さぬと翻る。ゴロリと濡れた草地に転がった首の横に、地面を穿つように血を吸った刀が突き立てられる。仕留めた筈の曲者は野生の獣であったのだ。 「……なんだ。狸か。胡散臭い気配が確かにこの辺にあったのに」 雨忍の一人はそう呟いた。続いて口から洩れたのは止まる寸前の微かな息である。両断された胴体が地表に落ちる。途切れたチャクラと立ち込めた血臭が雨忍の小隊を騒がせた。 「やられた、間者だっ、どこの者かっ!」 「霧隠れか? 岩隠れか? それとも――」 敵対する忍の里の名をのぼせながらバラバラと雨忍が散る。浸水した雑木林が包囲されていく。 狸の死骸と雨忍の死体を囲み、ここまでと頷きあう木の葉の面は速やかな退避のために印を組みかけた。直前、旋風が辺りの水を巻き上げた。泥の飛礫と削がれた雑草が宙に舞う。その水分が罅割れる。薄青色の糸が一帯に拡散する。稲妻のような光りが放射状に伸びていた。雷遁の一撃に痙攣した雨忍のすべてが泥に落ちるまでほんの二秒の出来事だった。 いまだ火花の散る手から血糊を払いつつ、静かに仲間の脇に降りた木の葉の暗部は犬の顔を貼り付けている。 「ちょっと派手過ぎないか、あくまでもこっちは隠密だろう」 非難の声を犬面は一蹴した。 「どうせ終盤だ。これくらいいいの。雨隠れの中枢が茶の国の件は無駄な投資と判断してくれなきゃ困るし」 犬面は掌をブラブラさせて、ここでもまた水攻めかと嫌気も露に同胞に問いかける。 「狸、どこ? 結界きいてないから限界でしょ」 「残念だが……」 足元に転がる狸の骸を示される。ぬかるんだ地面を犬面は蹴った。無言の威圧は三人に伝わるが、そこは闇の精鋭達だ、少しも怯む様子はない。 「我らはおまえが言うとおり護った。勝手に狸が飛び出したんだ」 「や、むかつくのはそこじゃなくて……」 犬面はふいと背後を振り返り、二歩下がった位置の杉木を下から睨む。拳を作って叩いた幹はわなと震えて蜘蛛と葉の数枚を散らす。続けて落ちてきたのは重量のある体躯だ。 同時に狸の屍が風に煽られた紙吹雪のように舞い上がる。狸の死骸iに見えた塊は蛾の群れであったのだ。 仲間の猿面、三様の微かな反応は、普段から動じぬ輩だけに、傍目には驚きなのか呆れなのか曖昧である。 月輝はチャクラ切れで弱っていたが意識はしっかりあるようで、泥にはまったまま、細い眼を顰め憎まれ口を叩いた。 「視たくもないツラがいる」 「この場合、味方まで騙す必要ないんじゃない? だから俺幻術の専門屋ってやなんだよね」 互いに勝手な私見を浴びせ合う。傍目に不仲の仲間のやり取りに猿面達が溜息する。 「なんでおまえが此処にいる?」 「伝令。引き際の」 「『雨降らし』は?」 「決着はあと半時でつく」 「連絡なら仕留めてからだろう」 犬面は月輝の太い腕を掴んで引き上げようとしたが、体重があるだけに容易に背中に担げない。 「俺が背負う。あんた分身だろう」 一人に言われて犬面は頷き大きな荷を託したものの、受け取る側にせめて狸でいて欲しかったとぼやかれてしまう。 「変化するチャクラは残っていない。置いていけ」 低く唸る狸の面を、犬の眼が睨んだ。殉死者なぞ出しませんよ、と呟く同じ口で喧嘩腰に言い放つ。 「俺の沽券に関わるんでね」 「フン、だから甘いと言うのだ、今の貴様は」 そのセリフには犬面は応じなかった。 「それとさ、狸になって縮んでもあんた重量はかわんないでしょーが。どうせ強行突破だ。大人しく担がれてな」 強行突破かよ、と猿達にてんでに舌打ちされるが、犬面はおかまいがない。 「身軽な二人、先兵ね。俺この人と行くから」 月輝を背負う男の肩を叩くと、犬面は背の長刀を抜き放つ。後ろに切り付ける。茂みが斜めに裂け人血が撥ねた。 それが合図であった。 やみくもに飛んできた手裏剣は幾多の葉を散らして水浸しの地面に突き刺さり、木の葉の獣らの最初の足並みを乱した。局地的な浸水は雨忍の得意とするところで、沼地の走行に慣れぬ者には不利な遁走条件だ。 本隊との合流まで半日は駆けねばならない。雨隠れの侵入者への体勢が整う前に、敵のテリトリーから抜け出すのは必然だった。 月輝は仲間の背で不規則に揺らされながら、意識が徐々に遠のいていた。霞む眼はすぐ近くで刀を振るう男に注がれていた。 犬は鋭い刀捌きで行く手に現れる敵の首を風が凪ぐように飛ばし、体躯を払う。少なくとも殺戮自体に迷いの筋は微塵もない。犬歯はいっそう鋭く研ぎ澄まされ月輝も身震いするほどだ。 それでも変わってしまったのだと月輝にはわかる。それは即ち、白い牙に酷似した、けれど同一とも言い切れない質。犬はくだらぬ情に囚われ、獣の形をした人になっていた。 そのことを厭う気持ちに嘘はない。また生き延びてしまうのかと毒づきながら、狸は犬の背中に疾うに死んだ男の幻を視た。 |