| 犬の体毛はくすんだ雨雲のようだ。せめて真っ白なら夜の導として助かるのにと思いながらイルカは犬の行く後を追い全速力で街中を駆けた。素性がわからぬのに追わずにいられなかった。初めて会った気がしない。獣なのにあの犬からは憶えのあるチャクラを微かに感じる。それは今一番会いたい人と酷似したものだったのだ。 犬はイルカが追うのを知ってか知らずか、速度を一瞬たりもゆるめない。忍でなければ疾うに置きざりにされる速さで駆けて行く。見失うまいと焦るせいで道順は何処をどう走っているのかわからなかった。終点が何処かは犬に追い着く少し前に知った。イルカの住むアパートの玄関前だ。 イルカは誰かにはめられたような心地で自分の部屋の前にお座りの姿勢でじっとしている犬にゆっくりと近付いた。犬はイルカを待っていたかのように尻尾をパタパタと振る。傍に寄るなり一つ鼻を鳴らした。 カカシはいない。けれど一匹の犬がここにいる。 弛む涙腺を誤魔化すよう額に浮いた汗ごと袖で拭った。 犬に首輪はない。一見薄汚れた野良犬だが夜目でも毛艶は悪くないと解る。埃っぽいのに毛並みが荒んでいない。よく見ると頭頂部に他より長い黒毛が鬣のように逆立っていた。眼はやけに大きい。虹彩が月明かりをはじく。覗き込めば自分が写るだけなのに、そんなことが嬉しくて腰を屈め目線を合わせる。話しかけてみる。 「おまえ、俺を諌めたのか。あの人は茶の国だもんな。ウロウロしてないで早く家に帰れってか?」 切れ込みの深い口蓋の脇をそっと両手で挟み、鼻面を突き合わせる。答えはないがそれには落胆を感じなかった。人の言葉は話せなくともただの犬ではない。この犬は確かに忍のチャクラを持っている。忍犬だ。 「留守番なのかな。番犬ならカカシさんの家にいなけりゃ駄目なんじゃないか? それとも……」 それともカカシの代わりに自分の元に来てくれたのだろうかと夢見がちな閃きに至っている。 「うちに泊まってくか? もう遅いしな」 独り言に苦笑する。確証はないのにすっかりカカシの使いだと決め付けている。思い込みで投げる言葉を笑う者はイルカ自身だけだ。だからせめてそんな夢想にかられてもいいではないか。 けれどいつからこんなに寂しがりになったのか。コスギに言われたとおりだ。独り寝はいやだ。理由は身体が人肌を覚えたからに他ならない。 突然長い舌で頬をペロリと舐められて驚いた。犬が不意打ちに示した人懐こさによりも、舌を這わされた頬のあまりの心地よさに心の臓がはねた。犬の首を引き寄せるように腕を伸ばすと、四つ足の獣は素直にイルカに頭と前足を預けてくる。撫でられた頬に当てた手の甲をゾロリとまた犬の舌が這う。イルカの手指はジンワリと温もる。指の股にまで犬の唾液が入り込み、その濡れた感触の熱さに眼を見張る。見張った眼で犬の眼を覗く。犬の眼にはイルカが写る。光の加減か錯覚か。右の像は銀色に、左の像は紅い焔が揺らめいた。 「……カ…」 愛しい人の名を呑む。呼べば届くような期待はせぬことだと自身を叱る。カカシは今闘いの中にいるのだから。 それでも願わずにはいられなくて犬に頬擦りしていた。 「はやく……還って来てください。早く御無事で……」 そうして自分を抱きしめて欲しい。カカシのいない里は寂し過ぎる。心細い。 鼻を毛並みに押し付けると獣の匂いがした。カカシの体臭とは異なる動物のものなのに、カカシのものと大差なく心地よい。 ドアを開ける。犬はじっと此方を窺ったままで、イルカの後をついて家の中に入る素振りは見せない。 「……腹減ってないか?」 戸口を開けたまま尋ねてみる。犬の反応は鳴き声ではなくゆっくりとした瞬きだった。 「おいで。なんかご馳走する……って言ってもな、俺んちにドックフードなんかねぇんだけど」 手招くと、犬は少しだけ思案するように首を傾げた。 「頼むよ。……独りは、寂しくて」 懇願する。項垂れ気味で犬の眼を覗く。変わらず犬の眼はイルカを写していたが、イルカがジリと脚を動かすとゆらりと立ち上がる。一歩、また一歩、イルカの緩慢な動きに合わせた鈍さで近寄ってきた。 イルカのあとを着き、犬が今にも玄関先に前足を踏み入れる。イルカはなお手招き冷蔵庫の中身を素早く巡らせる。肉はないが魚はあった。 おまえ魚は食うのかと問おうとした瞬間だった。膝頭と同じ高さにある犬の頭が揺れて見えた。イルカは立ち眩みでも起こしたかと前額部を押さえ、反対の手は下駄箱についた。だが自分の足はしっかり地に付いていた。 眼を擦る。依然犬は視界の中で揺れ続ける。訝しみ眼を見張る。揺れは霞のような白煙を伴い、犬の体躯の輪郭を見る間に隠していく。 「……お…い、どうし……」 目の前の現象に惑いかけた声は、開きっぱなしのドアから外へと虚しくこぼれ出ている。会話の相手は消えていた。風に飛ばされる煙のように、スウッと出入り口の隙間から外気に向かい流れてしまったように見えた。 半開きのドアを開け放ち、外に数歩踏み出す。月明かりはアパート前の路地を無用なほど先々まで照らしている。先刻駆けて来た道筋を眼を凝らして眺めてみたが、灰色の犬の姿はどこにも見えはしなかった。 のろのろと踵を返す。ガックリと腰を落とした上がり端で右下肢をおさえた。だるい。とても疲れていた。 傷の手当ても布団を敷くのも惰性で動き、やっと寝巻きに着替えた途端、気絶するように眠り込んでいた。 イルカは翌朝、起き抜けに寝巻きを膝までたくし上げ、右下腿の脹脛を確かめた。寝床に入る前、犬につけられた傷に消毒液をかけ軟膏とガーゼを当てていた。記憶の通り傷を覆っていた被覆剤をべリッと乱暴に剥がし、牙が食い込んだ痕をしげしげと眺める。歯形の通り穿たれているのにもう出血はない。 昨夜の出来事はいちいち記憶に残っている。紅は都合がつかなかったのか、自分の外出を止めには来てくれなかった。カカシの家の前に暫く居座っていた。それから町の中をふらついた。コスギと会った。よりによってあんな場所に引っ張られ、カカシの名を出されたことは心外だった。 だがそれと同じくらいの不快さで残った像が脳裏に張り付いている。 いったいあの犬の正体はなんだったのかと今更首を傾げるほどイルカも愚鈍ではない。いつから自分は着けられていたのだろう。それとも見張られていたのだろうか。 小動物の気配を察して立ち上がり窓を全開にする。忌々しい満月は失せている。昇りかけの太陽は明るく、朝露を光らせていた。何処かの部屋の目覚まし時計がけたたましく鳴り、すぐ止んだ。門扉の手前のお粗末な植え込みから囀っていた小鳥が二羽はばたいた。アパートの古い木塀の割れ目を潜り抜ける影を見つけたが、痩せた野良猫だ。 あの犬の気配は何処にもないことに安堵をし、同時に憤る。知らぬうちに何を何処まで覗かれていたものか。寝姿や飯を食う様子だけでも腹が立つ。まさか着替えや入浴や、排泄まで見られていたのではとカカシの所業におぞましくなる。 窓ガラスをピシャリと閉め、屋外に背を向ける。ズルリとしゃがみ込む。頭上の窓から明るい朝日が差し込んでくる。寝巻きの裾から噛み傷が覗く。傷は浅いのに牙を立てられた瞬間の感覚は深く骨の髄まで残っているようでジクジクと疼く。疼くそばから皮膚を撫でていた血液の熱さが蘇る。自分の血なのにまるで他人の体液が伝ったようで、それはきっとカカシが及ぼした淫らな刺激と同じ熱を持っていた。 この傷は犬の咬歯傷とは違う。獣は獣でも、二本足で人の姿をした雄の噛み傷だ。でなければ無意識にイルカが乾きかけた傷を抉ることはなかったろう。気付けば爪の先が細い孔にめり込んでいる。新たな鮮血がジンワリと滲む。滲んだ血液が細い筋道をゆっくりと作り皮膚を舐めていく。 膝頭が震えた。感じるのは苦痛ではなく淫靡な快楽だった。頭でなく身体が勝手に回想する。布地の内側で微細に逆立つ産毛の狭間でフツフツと汗腺が開き、全身が汗ばんでいた。 不埒な湿りを帯びた気体がイルカの気管を往復する。静かで爽やかな早朝に相応しくない。自分だけが現から隔離され、切り取られてしまうような不安に素足の趾で畳をジリジリと削る。右の手指は紅い液体を撫で付ける。窓下の壁に預けた背が捩れ、上向いた顎は奥歯を噛み過ぎたため顎関節が軋む。 「……あんたが……わるいっ」 詰るそばから血糊のついた右手で畳を叩く。男の執拗な視線が脳裏を掠めるのを払おうとする。けれど体は既に記憶に犯されていた。だから先刻からずっと下腹で衣擦れの音と濡れた音が鳴りやまない。 意思に反して左手は寝巻きの下で這いずりまわっていた。疾うに直に捏ねていた。掌も指も漏らした先走りですっかり粘ついている。 束の間の快楽にのぼせる身体が恨めしい。これがなければ欲望も生まれぬのにと子種を溜める雄の性を呪う。それでも上向いた性器を嬲らずにいられない。性感にたまらず崩れる腰の辺りに、肉を揉みしだく男の手を仮想し歯を食いしばる。そんなものは排泄には無用のものだ。あり得ないと否定しながら、秘部の奥に粘着質で濁った疼きが生まれるのを自覚する。自慰では決して得られぬ悦楽を、触れもしない粘膜が性急に請い内腿がビクビクと痙攣した。 だらしなく開いた下肢では今にも男の腰に割り込まれそうで、太腿をニジニジと捩り合わせる。カカシは此処にいないのに。 「はっ……っ、あっ、あっ、っやだっ、もうっ」 感覚は快楽に泥酔し、なにが嫌なのかわからなくなってくる。男に侵され満足するのがいやなのか。それとも侵してくれる男が此処にいないのが嫌なのか。 ――俺を思いながら独り寂しく自分で慰めてなさいよ。 辱めの言葉を反芻した途端、イルカは沸点を超えていた。 畳に断続的に放たれる迸りを唖然と見遣る。汚かった。獣臭かった。 喘ぎのおさまらない口中でまたカカシを詰る。 「……ち、くしょうっ!」 萎えた陰茎を握る。欲望にまみれ腐った肉塊だ。これで何度目か。最初に全裸で抱き合った日以来、カカシに植えつけられた感覚ばかりで性衝動をやり過ごしている。 カカシはきっと笑うだろう。向けられる眼は冷ややかで侮蔑と嘲りに満ちているに違いなかった。 アスマが何と言おうが、イルカは会いたくない。すまなかったと此方から折れることはできない。 許せば自分自身が壊れて無くなりそうだった。 |