| イルカは留守が承知の部屋の前に立った。呼び鈴を押しドアを二つ叩く。返事はないとわかりきっているのに耳を澄ます。応えのない部屋の外で少しの間寂然と佇んでいた。 ふと足元の方で何かが蠢いたような気がして視線を落とす。動いたのは月に照らされた自分の影だった。極々薄っすらとだが月光は地上に陰影を刻むほど強い。 だがその強さも自分の思いに比べれば何ほどのものだろう。 傍にいない。 恋しいと悲鳴をあげそうになるほどのこの切迫した精神状態は、一言で言ってしまえば飢えだった。長いことカカシに触れてない。最後に肌を合わせたのはいつだ。もうひと月前ではなかったか。 素肌を合わせるといってもカカシとはまだ行為の前戯のような交渉しか交わしていない。自分が慣れぬから、気が利かぬから、たぶんカカシは躊躇するのだろうとイルカは思うのだ。 他の男は知らない。女も知らない。それでもカカシにいつも優しく気遣われているのはわかる。口付けも抱擁も情熱的ではあるけれど、どこか戸惑いを残した触れ方をされているような気がしてならない。 もっと乱暴に攫われても良かった。強引に暴かれ手荒くされようが、相手がカカシなら怖くはない。またそうしてくれれば自分も羞恥など捨てられる。 イルカは閨でおぼつかない自分省み踵を返す。ひと月前、カカシが朝までとうとうその気にならずにいた理由は疲れのせいではなかったろう。きっと自分の何かがカカシを萎えさせたのだ。 カカシを喜ばせるにはどうしたらいいのだろうか。せめて下手糞な口淫が巧くなれば、興が逸れぬであろうか。 次の逢瀬ではしくじらないようにしようと考えながらカカシの自宅の前から離れてみたが、頭の中がカカシのことで一杯なのは変わらない。会いたくて、抱いて欲しくて、どうにもならない飢餓感を紛らすため、酒でもひっかけようかと繁華街へと踏み出した。しかし財布を持っていないことに行きつけの居酒屋の前で気付いた。 所在無くカカシがよくしているように下衣のポケットに突っ込んでみる。カカシの仕草を真似、もう片方の手で髪を掻いてみる。それで回想したのは自分の髪を愛撫の合間に梳くカカシの指の感触であったからなお寂しくなってしまった。 居酒屋の前から回れ右をする。暖簾の向こうで談笑する者達の中に、知った声を聞いたような気がしたが、それがカカシのものでない以上どうでもよかった。独りの部屋に帰宅する気にもなれず、ブラリと飲み屋と飯屋の並びを巡り、カカシがよく連れて行ってくれた割烹料理屋の前まで来てしまった。していることの他愛のなさに自嘲する。どこをウロウロしようがカカシは里にいないのだ。 猿飛アスマの話では、カカシはとても大変な任務を担っている様子であった。まさか還らぬ人になるのではと怖いことを考えてしまう。そんな心配は不要ではないか。カカシは強いのだから。木の葉の里が誇る上忍なのだから。 だが万が一、何か間違いが起きたなら。 カカシにもしものことがあれば、自分も生きてはいないと切に思う。初めて恋をした人だ。初めて肌を合わせていいと許せた人だ。 早く。今すぐにでもカカシが帰ってきてくれたらいい。そして傍にいて抱きしめてくれないと、自分は寂しさで息もできなくなってしまう。恋しさで目の前が暗くなる。身体が寒い。熱が欲しい。男の存在に飢えきる心身をもてあまし、もてあますゆえどうして良いかわからない。知らない町でもないくせに、迷子になったようにイルカは途方に暮れていた。 いきなり肩口を掴まれイルカは声も出せずに硬直した。目の前に同僚の顔がある。 「……イルカ? おまえなにやってんの?」 「コスギ?」 度々受付のシフトで顔を合わせる事務職員だ。呼んだ名が尻上がりになったのは、コスギが私服のせいだった。額宛をつけず前髪を垂らしていて、広めに開いた襟と弛めに結ばれた帯の着流しに、足元は雪駄。何処かの遊び人のような風体だった。任務のための変装でないことは知れた。そのような状況にいて同僚に声をかけることはありえない。 「おまえこそ……」 なにをしているのだと聞き返そうとしたら、先に一人なのかとまた尋ねられる。答えぬうちに腕を取られて横道に引っ張られ耳に口を寄せられる。口臭は酒気を帯びていた。一人なら付き合うか? と潜めた声で聞かれる。 「いや、俺、財布を忘れてきて……」 「どこに?」 「家に」 「財布持たねーで出て来たのか? ツケでもきく店があるのかよ」 そんな店はないし、借りてまで外で酒を飲むくせはない。イルカは矢継ぎ早に質問してくるコスギに腕を取られたまま返事に困った。フラフラ出歩いている本当の理由を説明するのは恥ずかしかった。此処にいないと知っていながら諦められず、その人の姿を求めてしまうのだとは。 「じゃ、奢るぜ。いい店知ってるから」 「いや俺は」 それこそ奢ってもらうほど酒が飲みたいわけでもないし、コスギとは気安く馳走になろうと思えるほど親しい間柄ではなかった。年齢が同じ、同じ中忍。受付業務を担うメンバーの一人というだけで、教員の同僚のようにこまめに毎日顔を突き合わせる相手でもない。 コスギは誘いに頷かないイルカの腕をグイと引いた。踏鞴を踏むイルカに構わず路地を進み、表通りとは反対の方角にズンズン歩いていってしまう。 「ちょ、ちょっと、コスギ、俺帰るから」 一瞬誘拐魔に連れ去られる気分になった。カカシがいないというだけで、里の繁華街はイルカにとり知らない街と化してしまったようだった。そして夜の街中をカカシ以外の者と並んで歩くことが非常に不快で、不安でもあったのだ。事実、イルカが引かれて行く先々には見知らぬ店の名が軒を連ねており、此処はいったい里内なのかと訝しくなる。一見、そこらの商店街と変わらぬ規模の間口の店が並んでいるようなのに、八百屋も魚屋も肉屋もない。寂れているのかと思うほどひっそりとした雰囲気の旅館、そうかと思うと派手な灯りの点滅する表示が地下への階段を示す入り口もあった。後ろに流れていく記憶にない店名に半ば茫然となりながら、やっと自分がどんな界隈に引きずられて来たのか理解した。 佇まいの静か過ぎる地味な旅館は連れ込み宿だ。地下に続く飲み屋は皆、給仕の他に春も売り物にしているのだろうし、映画館と思しき出入り口にはいかにも成人向けのタイトルとポスターが貼られている。小売店の特価商品を示すポップには大人の玩具の名称が堂々と書かれており、雑多でいかにもいかがわしい並びを通り過ぎてしまうと、大きくとられた格子窓の内側にきらびやかに着飾った女達が愛想を振りまいて手招くのが目に飛び込んできた。 上ずる声で自分を引っぱるコスギの名を呼ぶが、彼はヘラリと笑った。 「金なら心配するなって」 「いや金じゃなくてっ……俺はこういうところは……」 イルカは玄人の呼び込みの声を首を振って払おうとする。なんと淫らな界隈だろう。不道徳な店にポツリポツリと入っていく男達を唾棄しながら、コスギの手を引き剥がす。しかし一度離れたコスギの腕は、肩に絡み付いてきた。 「……わかってるって。あっちだろ」 酒臭い息で笑うコスギは心得たように頷き、路の先を示した。指差された店前にはひょろりと痩せた青年が立っている。男物にしては派手な花柄の着物を着崩した面の口唇に、女のように紅がのっている。手招く腕は細くまるで女性のように色白だ。つまりそこは男娼を置く店なのだろう。 コスギに背中を押される。抵抗してコスギの腕から逃げようとすると、大丈夫だよと囁かれる。 「……ああいうんじゃなくて、ちゃんとおまえ好みの逞しい兄さんがいるからさ。はたけ上忍、ずっと里にいねーもんな。どっかの任務なんだろう長期の。独り寝、寂しかったんだろう」 言葉の意味を反芻する。おまえ男がいいんだろうと言われている。留守のはたけカカシとそういう仲なのだろうと言い当てられている。 イルカはコスギの言葉にいちいち硬直し、次いでカーッと耳まで熱くなる。そういえばこの相手にはカカシとの仲を前々から疑われていたのではなかったか。 赤面して固まるイルカの素振りはコスギの親切か御節介か、それとも揶揄する悪戯心を煽ったものか。身体がグンと前へ押される。愛想を振りまく男娼の手が伸びてくる。 「あー、兄さん男前」 スルリと撫でられた頬にねっとりと性的な匂いが張り付いた。コスギが笑う。 「だめ、あんたこいつの好みじゃねーから」 「なぁんだ、つまんないー。じゃ…」 色白の男娼が店の奥から手招いたのは長身の体躯であった。イルカは動揺で眩む視界のせいで近付いてくる相手の顔が美しいのか醜いのかわからなかった。顔かたちより着物の袖から覗く腕と、ゆるい襟ぐりから見える厚い胸筋とその広さに焦点がいき、知らず口内に溜まった唾液を飲み込んだ。ムッと鼻についたのは雄の体臭か、媚薬の混じった香なのか。イルカはまた生唾を飲んでいる。 客に対するには荒々しいのではないかと思える強引さで長身の男に腕を取られる。それから背を撫でられた。ゾワリと鳥肌が立った。感じたのは百パーセントの不快ではなかったことに驚いて息を詰めていた。ごつごつした男の掌は下へとくだって尻の辺りをさすってくる。払い除けようという意識はあるのに身体は淫靡な接触を許したままイルカは動けなかった。 カカシの代わりに抱いてくれる腕が欲しいわけではなかった筈なのに。 前へ押そうとするコスギの力と、店内引き込もうとする腕の力に足がもつれてふらついた。おかしな浮遊感がした。寂しさに理性の糸はだらりと弛み、それからくたびれたゴムのようにズルズルと伸び切っていくのが自覚できた。 なにをしようとしているのだろう。暖簾を潜ればカカシを裏切るだろうと頭の隅でわかっているのに下腹部に淫らな熱が生まれ、それは未知の体感の期待に膨張していくようだった。 心と身体の飢餓を一時でも忘れ埋められるものならば……。 だが店の敷居を右足がゆっくりと超えるその瞬間、イルカは低い獣の唸りを背後に聞いた。 その場にそぐわぬ血臭が鼻腔をついたのと、コスギが横で呻いたのはほぼ同時であった。生暖かくトロリとした液体がイルカの左の脹脛から滲む。男娼たちが悲鳴をあげる。道往く酔っ払い達が騒然となる。 コスギは忍の術を屈指しようと着流しの袖をたくし上げ、両手を持ち上げている。 イルカはコスギの咄嗟の攻撃を止めていた。自分の左足に食いついてきた一匹の犬を何処か陶然と見下ろしながら。 噛まれた下肢は出血するほど牙が食い込んでいる筈なのに、不思議と痛みは感じていなかった。 「大丈夫だから……」 突然襲ってきた犬に対し、果たして何を根拠にそう口をついて出たものか。娼館に入りかけの右足は元の位置に退いていた。犬の上顎と下顎が少しだけ開き、刺さった牙がサクリと皮膚と肉から抜ける。しかし犬の口蓋は依然イルカから離れず脚を噛んだままだ。 「……大丈夫じゃねぇよっ。血が出てるぞイルカ。狂犬か、こいつっ」 イルカは首を横に振っていた。イルカの脚に牙を当てたまま、ジッと仰いでくる獣の目には狂気もなく、息遣いにも獰猛な攻撃性は感じられずにいたからだった。 「おまえ……」 腰を屈めて犬の頭に掌を置く。短い灰色の体毛を撫でつけるように手を背に向けて滑らせると、犬はフワリと尾を振り、それからイルカの脹脛から呆気なく口を離す。くるりと向きを変え、なにもなかったように軽やかに走り出す。 イルカも脚を踏み出していた。まるで犬のあとを追うように。コスギの驚く声と、男娼等の狐につままれたような見張られた視線を背に足を動かしていた。 淫蕩な町の灯りが後ろに飛ぶ。往来の人影の狭間に時々灰色の犬が隠れてしまうから、見失うまいとだんだん早足から疾駆になっていたのだ。噛み傷からじんわりと滴る血は下衣の下で脛をゆるやかにくだる。 複数の血糊が足首まで落ちる感触はなぜか優しい愛撫のようで、イルカの鼓動は走駆の負荷外で大きく跳ねた。 |