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満月の夜だけの-16-



  窓枠の形に薄い明かりが膨らんできた。月明かりが窓ガラスを越え室内に押し寄せてくる。それは天井の蛍光灯と混じり合い、やがて人工の光りを徐々に侵食した。
 実際は蛍光灯の方が明るい筈なのに、満月はよりイルカの眼を焼いてしまう。視界が一瞬眩み、軽い目眩がイルカを襲う。
 瞬きして手の甲で擦った瞼の裏に、浮かんだのはカカシの姿だ。
 昨日、カカシのことでアスマになにごとか進言された。とても不快で不可解なことだった。いったいアスマは何に腹を立てていたのだろう。謂われのない文句を並べられたような気がするが、会話の詳細は思い出すことができなかった。
 カカシに対してなにか自分はよくない態度をとったらしい。イルカにそんな覚えはない。たぶん何かの間違いだろう。アスマは何か誤解をしているのだ。自分はカカシが好きなのだから、カカシの不興を買う真似は断じてしない。
(……こんなに好きなのに)
 月明かりをもっと浴びたくてカーテンを引く。窓枠に肘をかけ、空を仰いで溜息する。
 カカシに会えない日々はもう飽いた。辛い。寂しい。任務はいつ終るだろう。確か二ヶ月と言ってなかったか。
 できるならカカシのいる場所に会いに行きたいが、そんなことは不可能だ。任務に関係のない面子が顔を出し、歓迎されることはないだろう。
 まして自分の身の程は知っている。任務の邪魔はできない。
 幾度目かの溜息に窓ガラスが曇る。イルカは指先で白い曇りに文字を書いた。
――カカシ
 名を意識でのぼせるだけで恋しい思いはつのるのに、描いた文字を声にして呼びかけている。もちろん返事が返ることはない。遠く離れた距離がやるせなかった。
 イルカは独りでじっと部屋にこもり、夜明けを待つのがたえられなくなった。気晴らしに散歩でもしてみるかと腰をあげる。
 玄関を開け、踏み出した方角は、自然、ひと月前に走った道順になる。今日はゆっくり踏みしめる。待っていてくれる人はどうせいないから。
 それでも自分は行きたいのだ。カカシの腕に包まれ眠った場所に。
 会えもしないのに。



 古い木塀が囲んだ安アパートのドアの一つを、夕日紅は複雑な思いで見守っていた。
 イルカに頼まれたのだ。満月の月明かりが地上に届けばイルカにかけられた幻術が発動する。
――俺は、茶の国まで行ってしまうかもしれません。
 自嘲に似た苦笑を洩らすイルカに、そうなったら止めてくださいと頼まれた。
 術が発動すると記憶が混濁し、真実を都合の良いように曲げてしまうらしい。
 厄介な術だ。カカシはそんな幻術をいつどこで会得したのか。いや、カカシの場合、会得せずにコピーしただけか。
 満ちた月が夜の照明となり、里を照らし初めて間もなくだった。予告通り本当にイルカは部屋から出てきた。
 向かうのは何処か。
 イルカの表情は常より僅かにぼんやりしてしているように見えたものの、明確な意志はあるようで足取りはしっかりしていた。
 紅は頼まれたとおりイルカを止めるべく、座り込んでいたアパートの向かいの家屋の屋根から立ち上がる。束の間左手に見下ろすイルカの速度に合わせて進んでから、行く手の手前に着地しようと下方に飛ぶつもりであった。
 しかし跳躍しようと瞬間、隣りに馴染んだ男の気配が現れ腕を掴まれた。力はガタイの良すぎる男の本気の力であった。紅の動作は止まっていた。
「ご苦労なこった」
 あからさまに呆れた声音が癪にさわり、紅はイルカから眼を放さぬまま肘を張った。これも本気の彼女の腕力だ。自分を阻む手指を引き剥がし、食らわそうとした肘鉄は狙い違わず男の筋の層にガシリと食をい込んだ。
 ゲホッと咳払う口元から、ポロンと紫煙の残る紙巻きが落ちる。が、相手は一度口端からこぼれた煙草を、下から二本の指でついと挟んで落下をくい止めていた。
 二人の間でふわんと煙が立ちのぼる。煙を吐いた猿飛アスマは、面倒くさげにまた言った。ご苦労なこった、と。
「言ったでしょう。私はイルカの味方よ」
「イルカの味方なら、止めるこたぁねぇだろう。今のあいつはカカシの傍に行きてぇんだからよ」
 鼻から紫煙を吐くアスマを、紅はきつく睨んだ。
「あれは本当のイルカじゃないでしょう」
「本当のイルカだろうがなかろうがな……」
 アスマは再び紫煙を上らせ、苦笑いした。
「……俺達は外野だ。よけいなお世話はやめようや」
 紅はゆっくりとだが確実に遠ざかるイルカの姿を見失わぬよう屋根の上を数歩移動してから、うしろからピタリと着いてくるアスマに文句を投げつける。
「アスマだって口出したじゃないの」
「俺ぁ、教えてやっただけだ。イルカが知っておくべきことをな」
 したり顔のアスマが伸ばしてきた手を払う。
「あんたはどうしても、イルカがカカシを追い込んだって言いたいのね。そんなのカカシがやわなだけじゃない」
 アスマはワハハ、と今度はさも面白そうに笑った。
「知らなかったのか? あいつはやわだ。憶病もんだ。カカシは上忍で、イルカは中忍だぞ。自分のものにしたけりゃ一言命令すりゃよかったじゃねぇか。これまでそんなこともできなかった奴は豪胆とは言えねぇだろう」
 紅は視線でイルカを追いつつ、前へ飛ぼうとして屈めた姿勢でアスマを振り返った。
「『俺のものになれ』?」
 かつて自分が言われた口説き文句をそのまま口にしてみたが、アスマは首を横に振る。
「『尻まくってそこに這い蹲れ』だ」
 紅は顰め面でヒールの踵で屋根の瓦をカシンと蹴った。
「どうしてあんたってそう下品なのよ」
「下品じゃねえよ。簡単なことだったんだ。手に入れたきゃな。俺に言わせりゃ両方びびり屋。小心者同士、似合いだねぇ」
「なによそれ。イルカをカカシと一緒にしないで」
「阿呆か、おまえは。知らねえのか?」
「なにをよ」
「イルカもカカシを好きだろう」
 はたと惚ける紅を余所に、アスマは短くなった煙草を携帯灰皿の中に押し込んだ。それからあらたな煙草に火を灯す。
「……そうなの?」
「ちがうのか?」
 逆に問われ、紅はイルカの後ろ姿とアスマを交互に視る。
「切れずにいたのも、煮えきらねーのもな、俺にはそう見えたけどな」
 紅は膝を伸ばし、遠くなるイルカの後ろ背をぼんやり見遣る。
「アスマの思い違いよ。だったらなんでイルカはあんなに怒ったのよ。仕返しなんかしたの? 喧嘩になるの?」
「知らねぇなぁ、そんなめんどくせー部分はよ。それこそ当人同士の問題で、まわりが介入していいことじゃねぇからな。しょせん俺等は第三者だし、イルカは心配ねえから、帰って一杯やろうぜってこと」
 あれを視ろや、と指差されたのは遠くなるイルカの後ろ姿であった。紅は二度瞬きした。言われて不覚にもたった今知った。自分の他にイルカの後ろを追う影が見える。一定の距離を保ちイルカを尾行しているようだった。追いすがるでなく、離れるでもない。イルカはきっと気が付いていない。追跡者は姿はともかく、気配を断っているのだ。
「……ほらな。俺等の出るまくじゃねぇってことだ。お節介はやめとこうや」
 紅はイルカをひっそり追う四つ足の獣に、やわで憶病な男の情をかいま見立ちつくす。
「ばっかじゃないの、カカシの奴。任務の最中に。修羅場ってるくせに」
 呟きは小さく、アスマの紫煙と混じる。腕を引かれて後ろから抱き締められる。ヤニ臭いわよ、と文句を言う唇のグロスは、カカシと異なり豪胆な男の髭面を花の色に染めていた。



2006.07.12



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