| 訪ね慣れた部屋のドアの前、イルカはその日も溜息とともに踵を返した。月輝が外勤に出てからひと月以上だ。空の月はまた太りはじめている。 術を解く方法を模索する日々に、イルカは疲れ果てていた。守衛の者達が住まう長屋の前は、誰も気にとめぬのか雑草がはびこっていて、ところどころにススキもあった。月見には欠かせぬ季節の植物は、花開いた穂がカカシの逆立つ髪を思わせ、憂鬱と焦りがいや増した。 明日には満ちる月齢の光りはイルカの心情とは裏腹に明るい。アカデミーの要所から洩れる窓灯りも、外灯も霞んでしまうほどだ。 アカデミーの校舎まで引き返したところで、見知った二つの影が向こうからやってきた。 「あー、いたいた。イルカー」 ひらひらと手を振るくの一は、夕日紅である。隣りにいるのはいかつい風貌の猿飛アスマだ。 暫く見かけなかった。紅が七班を率い、アスマが十半分率い、それぞれ遠方の任務に就いていたためである。 イルカは無傷の二人にお疲れさまを言い、それから元生徒等の無事も尋ねて安堵する。いつもの会話だ。常ではないのが此処が任務の受付所ではないことだった。 「ええと、俺をお探しでしたか?」 尋ねると、紅はまぁね、とアスマに顎をしゃくった。様子から、用事があるのはアスマの方なのだと悟る。 「アスマ先生?」 首を傾げるとアスマは夜気に紫煙を吐き出した。銜え煙草を噛む口元が変に歪んで不機嫌を露わにしていた。 「顔かせや、イルカ」 向けられたことのない苛ついた声音に、イルカは驚いた。なにかこの上忍の機嫌を損ねる振る舞いを自分はしたか。思いあたらず、紅の方に無意識に視線を彷徨わせ、眼で助けを求める。紅はイルカと視線が合うと同時、両手をピタと顔の前で合わせていた。 「ごめん、イルカ、ついアスマに……カカシのこと」 カカシのことなら、幻術の件であろう。イルカはべつにかまいません、と言いかけ、だがそれを知ったアスマがどうしてイルカを睨むのかと困惑した。イルカは被害者なのである。 「なんでてめーえが睨まれるか、わかってねーツラだな」 アスマは勢いよく吸い込んだ煙をこれまた勢いよく吐いた。 「紅はおまえの味方だろうが、残念ながら俺はカカシの味方でね。だからおまえに言わなきゃいられねーことがある。来い」 首根っこを掴まれ引きずられる。ズルズルと地面を掻く足が跡を残すのをイルカは茫然と視る。 連れていかれたのは上忍達の待機所だった。偶然なのか、人払いされたのか、待機所は灯りはついていたものの誰もいなかった。 カカシを連想させるものは何も視たくない心境のイルカには、酷な場所の一つだ。里内に散らばるカカシと繋がる場所は、幾らでもあるが、此処はあの日、カカシに永遠の術の効力を宣告された部屋である。 突き落とされるように座らされたソファーの上で、イルカの身体は二度弾んだ。 「ちょっとっ、乱暴はやめなさいよ、アスマ。あんたの言い分なんか関係ないんだから。悪いのはカカシなんだからっ!」 甲高い声をあげながら紅がアスマの背を二度、三度叩いたようだった。巨躯の影に隠れた紅の細腕は、思い切り力がこめられていたらしく、アスマは微かだが呻いて後ろに首を捻った。 「……ってー、おまえは黙ってろっ。所詮追われる側、受け身のやつにはわからねぇんだよ、こういうことは!」 一喝されて紅が息を飲むのが聞こえた。 「な、なによ、それ。私はわかるわよ、どんなにイルカが迷惑してるかくらい」 「迷惑? はっ、笑わせる。だからおまえの立場じゃわからねぇって言ってんだろうが」 アスマは短くなった煙草を灰皿にギリギリと押しつけた。 「迷惑なのは、カカシもおんなしだってんだよっ。覚悟がねぇならコクられた時点できっぱり口もきかなきゃいいんだ。なにがお友達だ。そんなに綺麗事で済ませたかったかよ。ガキじゃねぇんだよ、ったく。延長戦に持ち込んだカカシも馬鹿だが……」 アスマは向き直った。イルカを睥睨してきた。 「てめーはもっと馬鹿だな、イルカ。だらだらカカシに付き合いやがって、そしてさんざん焦らして、奴を追い込んじまったんだ」 イルカは言われた言葉を反芻しながら体温が失せるほど戦慄した。 「カカシははっきり言ってたじゃねぇか、そういう意味で惚れてるってよ。そのおかしな術は自業自得だ。恨むなら自分を恨め。カカシに仕返しなんて筋違いだ。見損なったぞ、ばかやろう」 アスマの口調は乱暴だったが、いちいち的を得ていた。そういう関係はごめんだと、そんな気はないと言いながら、ずるずる付き合いを切れずにいたこの数ヶ月、自分は確かにカカシを焦らして焦らして、焦らしまくった。 カカシが欲しがるモノを手の届く範囲にぶらさげておきながら待ったをかけ続けた。空腹の犬の前に餌を置き、おあずけは永遠だと宣告すれば、飢えきった獣がいかに従順で慎ましくあろうとしても、いつか理性の糸が切れることも想像できた筈だ。 かくてカカシの理性も自制も壊れ、結果、イルカはそれでもなおカカシが性急であると酷い言葉で罵った。 事の発端は、なにもカカシのせいだけではないと心の隅ではとうに気付いていたのに、責任も罪も、カカシに押しつけた。 友人以上を望む相手に、友人を望むのはアスマの言うとおり、綺麗事に過ぎない。 だがイルカは綺麗な関係が好きなのだ。美しいと誰もが形容するものが好きなのだ。 子供が愛しいのは純真で無垢な心が美しいと思えるからだ。カカシの髪や眼に焦がれるのは、色味の冴えが美しいから。同じくカカシを敬うのも、カカシの忍としての秀麗さゆえだ。 醜いもの、汚いものは要らない。視たくはない。自分の中に在る醜さを呼び覚ますものは特に触れたくもない。 自己を嫌悪するがゆえの逃避に過ぎない矜持。だがイルカの自己防衛には必要なことだった。カカシの思いに折れないことは。 自分を睨んでくるアスマを、自失したように見上げながら、イルカは目まぐるしくそんなことを考えていた。 だがアスマの眼にはふてぶてしい無反応に見えただろうし、紅の眼には上忍に怒鳴られる怯えに見えたかもしれない。 当のイルカを余所に、アスマと紅の口論は続いた。 「そんな言い方ないでしょうっ」 「どういう言い方だろうが、イルカが悪いんだよ」 アスマは新しい紙巻きを取り出しながら、紅をぎらつく眼できつく睨んだ。彼女も負けじと睨み返している。 「大丈夫よ、イルカ、あなた悪くないから、忘れてアスマの言うことなんか」 「忘れてもらっちゃ困る。情欲がどっちかにあれば、おきれいな関係なんかなりたたねぇ。俺はカカシを哀れと思っても、おまえには同情しねぇぞ、イルカ」 「もうこじれるとこまでこじれてんのよ、イルカにどうしろって言うのよ」 いつもは仲睦まじい二人が、自分たちのせいで争っている。いたたまれない。イルカの反省心は束の間そちらに傾いたが、二人の勢いに口を挟む間がない。 「カカシに謝れ。頭を下げてケツを差し出せってんだ」 「んまっ。なに馬鹿なこと言ってんのよっ。イルカにそんな趣味はないのよ!」 「……ただし、奴が、生きて帰ってこられたらの話だ」 煙草の煙とともに吐き出された声は、立ちのぼる紫煙のように急に細く頼りなくなった。一変したアスマの声音と、言葉の意味にイルカは背中から冷水を浴びたような悪寒を感じて身震いした。 「どういう意味よ。そういえば暫く視ないけど、もしかしてあっちの任務?」 不穏なセリフには紅も反応した。あっち、というのは、カカシがかつて籍を置いていた特殊部隊のことである。時にカカシが駆り出されるのは、写輪眼や雷切など、カカシに限る術が必要な時、またはカカシが使役する犬達が役に立つ折りに限ったことで、めったなことでは加わることはないとイルカは聞いている。 「そのまんまの意味だ。今回の任務で帰りがけに茶の国の国境を通ったら、奴の犬に会った。顔見知りの忍犬だったんで任務の最中かとは思ったがつい声かけちまったんだよ。ひょっとしたら、今度は駄目かもな」 「なにがよ。茶の国でなにが起きてんのよ。はっきり言いなさいよっ」 苛立つ紅がアスマの襟刳りを下からひっ掴む。アスマが呻く。イルカは思わぬところで口を挟む機会を得た。 「茶の国の、集中豪雨、ですか? あれ、どこかの忍の仕業ですか? その前にも、カカシさんは茶の国に行ってましたよね。先月の任務と関係ありますか?」 矢継ぎ早に質問していた。いやな勘が働いた。そしていやな勘や予想というのは、たいてい当たってしまうのだ。 「関係大あり」 アスマは紅の手を払いながら、剣呑な雰囲気を解いていた。 「簡単に言うと先月の任務、カカシは急ぎすぎて、主犯を逃した。主犯はまた同じことを繰り返した。十倍以上の人員を引きつれて、先月以上の執拗さでな。ある程度結界は張っちゃいるが、俺には視えたぜ。ひと昔前の戦場みてぇな殺し合いしてやがる。前回、カカシが急いたのは、おまえのせいだぞイルカ。紅に事情を聞いて俺は合点がいった。月が満ちる前に、カカシは還りたかったんだろうさ。術が発動するその日には、おまえの傍にいたくて……」 イルカはまた非を突きつけられ愕然とした。冷たい汗を忍服の内側にかく。だがすぐに首を横に振ることでアスマの解釈をうち消そうとした。 「……そんな、のは」 俺のせいじゃないと、言い損ねる。カカシが自分如きに恋慕しているのも愚かしいのに、任務に影響をきたすのも愚かしい。生死を分かつ現場であのはたけカカシが判断を誤るか。 そうしてそのせいで、泥沼の闘いを自ら招いたのか。 二の句が告げないイルカに、アスマが吐く紫煙がかかる。煙草から漂う煙の粒子が眼に染みる。物理的な負荷の反射で視界が霞む。 イルカは瞼に伸ばした指の腹についた微かな水滴を、忌々しく擦った。 |