| 迷いなく下ろした刃が空を割いていた。予測した手応えが得られぬ焦慮に出た一瞬の隙を突かれ、顔を覆う面の額に金属の忍具を当てられる。だが頭蓋を狙われたその攻めは、幸い髪一本にも満たぬ溝を残したのみだった。 カカシは後ろに退くと見せ、背後に転移する。宙に浮かした足が地に着かぬ間に、地表を掬うように上へ払ったひと振りでようやく敵の首を撥ね上げた。 ドシャッと落ちた頭を追うかたちで敵の体躯が雨水の溜まる地面に沈む。短いとは言えぬが長くはない攻防に、不覚にもあがった息を整えながら、カカシは雨隠れの忍のカッと開いたままの両眼を見下ろした。 いつかのように死人の瞼を下ろしてやる気にはなれない。そんな余裕がない。上下する肩の動きを制御する方が先決だった。 常態に戻った息で指笛を鳴らし、仲間を呼んだ。 手近な樹木に上り、待つ。疲労した腕を雨が伝う。刃渡りにも地面にも。 そこら中に飛んだ人血は、雨雲のせいで曖昧な夕刻の中でもギラギラと鈍い油分を光らせていたが、やがて雨水に溶け泥に紛れていった。 当初の豪雨はなりを顰めたが、茶の国はまだ雨忍によって梅雨のような、それ以上に陰鬱な天候が続いている。日が射さぬ世界は無彩色に近い。そんな中、全身黒装束の木の葉の死体処理班が、陰った地上で更に黒い影が蠢いているように低い姿勢で行く。まるで泥を浚うように駆け抜ける。 彼らが過ぎたあとには何も残らなかった。 敵の死体処理まで味方がやるのも作戦だ。敵方優勢の筈なのに、雨忍の死臭が漂っていては困る。 ふいに後ろから後輩の声がかかる。 「月輝さんの幻術は、あと何日持つと思いますか?」 カカシは振り向かずに、さぁねぇ、と確信のない期限に肩をそびやかした。少し考えてから、明後日までかな、と予想する。 「三日以内に伝令を出そう。もとから最後までとは頼っていない。倒れるまで酷使を強要して見殺しにする気はない」 「そんなことを言うと、また甘いと怒られますよ。味方の力を最大限に利用せず、途中半ばで待ったをかけるのはどうでしょう、月輝さんのプライドが許さないような気がします」 カカシはふやけ過ぎた土のせいで、頼りなく傾いた樹から舞い降りた。後輩は追うようにカカシの隣りに着地した。 「でも、この間も言いました。そういう甘さを覚えた先輩を、軽蔑する気はないです」 じゃあ何が言いたいのだと、カカシは面の下、軽く同胞を睨む。 「全力で闘っていない先輩を軽蔑します」 後輩の口調はかなり辛辣だった。 「俺は精一杯やってるよ」 「……そうかな」 「力不足に見えるのは、おまえが俺より上をいくからだろう」 実際、この後輩は幸か不幸か五代目の祖父、初代火影の遺伝子を備えているため、カカシより優れている部分は遙かに多かった。 黒髪短髪の後輩は、やや首を傾げジッと凝視してくる。カカシはその視線を避けた。 「いくか。今日の目標は終わり」 カカシは先に走り出す。塒にしている民家に向かう。長期戦になるため茶の国からいくつか家を借りている。風雨を凌ぎ身体を休めることは必要だった。 小雨を切り、先を行くカカシは後ろから、犬はどうしました? と問われる。追いつかれ同じ速度で隣りに並ばれる。 「いるよ、そばに」 カカシは懐に入れた口寄せの巻物を、立てた拇指で示した。 「でも全部じゃない」 断定され、カカシは苦虫を潰す。見破られていたものに対する言い訳は用意していなかった。言い訳のしようはないからだ。 力の一部を微細に繰り出し、遠隔地に割いていることに後ろめたさがないと言えば嘘だ。目の前の任務に全集中できていないカカシは、この任務の責任者としても忍としても失格だろう。 「先輩、チャクラ、何に使ってるんですか?」 カカシは眉を寄せた。 「言う必要はないだろう。誰にも迷惑はかけてない」 少なくとも、まだ、の話ではあるが。 「そういう問題ですか。この任務の間は、忘れると言ったじゃないですか。半端なことをしていると、死にますよ」 後輩の発言は容赦がない。 「べつにいい。それならそれで。所詮俺も駒の一つだ。生き残るおまえがなんとかしてくれるでしょ」 「他力なことを言う先輩も、好きではないな」 「……おまえねぇ」 走りながらの息も乱さぬ対話に、カカシは間をあける。言いたいことを言うようになった年下の精鋭に溜息した。 「なんなのさっきから。やけにつっかかるじゃない」 「さぁ、なんなんでしょう」 「なんででもかまわないけどさ」 カカシは下着まで濡れた身体の冷えを飛ばすように、走る速度をあげた。 「俺がどうなろうと、作戦が成功して任務が完遂できれば、なにも問題はないでしょ」 青年はカカシの真後ろで首を傾げ、それからまたついと真横に並ぶ。 「最初は先輩の恋を応援する気持ち満々だった。でも気付いたらやたら苛々してるんです」 「どーして?」 微かに彼は面の下で苦笑したようだった。 「僕は嫉妬してるのかもしれません」 カカシは思わず脚を止めそうになった。けれどそうはせず、横目で後輩を凝視する。聞き捨てならない言葉に潜む相手の感情を探ろうとしたが、面が、彼の周到な気の制御がそれを許さなかった。 「ふぅん、嫉妬ねぇ。どっちに?」 「もちろん、先輩にですよ」 「へぇ。おまえもあの人のこと……」 カカシが剣呑な視線を横に投げると、後輩は、まさか、とカラリと笑う。 「そんな風に、誰か一人に焦がれてしまえた先輩に、ですよ。忍に徹しきれなくなるほどに、恋にのめり込むことができるようになった先輩が、羨ましいんですよ、きっと」 独り言のように呟かれた言葉に非難めいた響きはなかった。そうか羨ましいかと問えば、けれど全てを羨んでいるわけでもないと言う。 「だって片思いでしょう」 揶揄に似たセリフを付け足され、それって随分と辛そう、とついには気の毒がられる。カカシは口をへの字に曲げていた。 雨から身体を庇える屋根の下に着き、二人して裏の勝手口から滑り込む。湿気に重くなった引き戸の内側には、特殊部隊の面子が五人、板の間の囲炉裏で暖を取っていた。スリーマンセルの各リーダー達である。 「守備は?」 「上々」 一人が答える。 「ノルマは?」 「片付いた」 五種類の声が同時に発した。 「よし。では明日からいよいよ『雨降らし』の潜んでいると思われる界隈をあたる」 カカシは適当に自分の水滴を拭うと防水の忍具入れから地図を床に広げた。朱色でつけたバツ印に、今日あらった箇所を書き加え、屠った敵の数を「正」の字で入れた。 首を切った総数を眼で数える。茶の国に潜んでいる雨忍の数も術の力も、最初の詠みより上まわっていた。あげた首は四十を超えているのに、天空にはいまだ雨雲がはびこっている。気取ることができぬ敵が多いのか、率いる『雨降らし』の他にも、よほど長けた術者が存在していたか。 作戦を練り打ち合わせを終えると、五人の隊長達はそれぞれの間借りに戻っていった。 濡れたものを脱ぎ、風呂に湯を張っていると、間もなく町人に変化した紅一点のくの一が舞い戻ってきた。彼女は食料と民家の様子を調達しに行っていたのだ。 「浸水した家から非難していた人達が、約半数、避難所から一時帰宅可能になりました。このまま小雨から晴天に向かえばよいですね。敵の人数の他は、ほぼ計画通りですよね、先輩」 カカシはまぁね、と満足していない返事を返す。想定内の日数では本当はカカシは不本意なのだ。できれば二月分の計画を半分に縮めてしまいたかった。それが叶わぬと悟った頃、犬を一匹だけ里にやった。チャクラは遠くに放った忍犬に使っているのだ。 「……計画通りの、ひと月目か」 知らずこぼした声に、カカシの本音を掴んでいるだろう、初代火影の遺伝を継ぐ若者はわざとらしく、さすがですね、と言ってきた。 カカシは黙っていた。単純に、先刻の会話を蒸し返されるのを避けた。他人にわかりきった片恋を幾度も思い知らされるのはこの上ない不快であった。 日暮れの際が合間な空が漆黒の闇にすっかり包まれ、他の二人が寝静まったのを見計らい、カカシはくるまっている毛布一枚の下で密かに印を組んだ。 作戦開始は夜明け前だ。それまでの時間、少しだけでも視ておきたいものがあった。 独りでないときにこんな術を発動していると、もしかしたら賢い青年には気付かれるだろうが、それでもカカシはそうせずにいられなかったのだ。 ――半端なことをしていると、死にますよ。 後輩の辛辣な言葉はもっともだ。忘れようとしても修羅になりきれていない。イルカに気を割いている。闘いに全集中できねば、死は天罰のように降るだろう。 他国に名を知らしめた写輪眼のカカシが、コピー忍者のはたけカカシが、恋に殺される。 何処かの手練れではなく、同じ里の殺意のない一員が原因で生を終える。 直接手はくだされなくても、イルカのせいで死ぬのである。 思いを馳せずにいられぬせいで。気が乱れるせいで。 それもまた一興ではないかと笑いが出る。こんなに欲しい人は、狂うほど手に入れたい人は、生まれてこのかた初めてなのだから、死に方としてべつに間違ってはいないだろうと思えるのだ。 月輝も言った。孤立無援の戦で活路を見いだすよりあの男を落とすのは難しいと。そう、難しいのだから。この恋は。 音もなく印を組み終えると左の写輪眼が、今此処にあるもの以外の像を結んだ。場所は里のアカデミーの中。時は昼間。視線の位置がやや低いのは、犬の背丈を通した風景だからだ。 リアルタイムの像を巻き戻すように時を遡る。使役の記憶を逆行させ数日前に戻る。即ちそれはカカシが四日前に視た象の直後だ。 カカシは犬の記憶を自分の記憶として回想することができた。使役の眼を介し、彼を視つめることもできる。 犬にはイルカに気取られぬ距離を取らせている。イルカが何処を行こうが、嗅覚と聴覚を使い探す。戦闘のただ中にカカシが身を置いている間は、犬がチャクラ不足に陥り、見失うこともあった。だがまた探す。 犬がイルカの姿を見つける。中肉中背、いつもしゃんと伸びた背筋、首を振ると頭の上でヒョコと揺れる結んだ髪。精悍で生真面目な眼差し。ふいに破顔したのは、生徒等の戯れに応じたからだった。イルカの笑う顔は久しぶりだった。ずっと沈みがちだった。あれ以来。 自分と素で向き合う時は、もう見せてはくれないだろう笑顔を堪能すると、涙腺が思わず弛みそうになり、カカシは目頭を押さえた。そうしている間に犬の脳に留めてあった映像は走るように進む。 同僚と談笑しながら、飯を頬ばる姿。受付所の窓辺に寄り、外の空気を気持ちよさそうに吸う仕草。 イルカが嗅いでいる匂いも犬も嗅ぐ。カカシの鼻腔にも香った。田園の稲穂の香りである。木の葉の里では稲刈りが始まったのだ。稲が刈られる瞬間の青臭く酸味の混じる香ばしい臭気は風に乗りイルカを包んでいた。 季節の香りを楽しんでいただろうイルカは、同僚に呼ばれて振り向く。幾つかの対話のあと、彼はみるみる顔色が悪くなった。具合の優れないイルカを更にからかうように続いた同僚の言葉に、とても動揺した。口元を抑え、その場から逃げるように受付所を出ていく。 向かった先はトイレだ。苦しげにイルカは嘔吐した。何度も。 もしや病気かと訝しみ、心配し、そうではないのだとだんだんと悟る。たぶんイルカは嫌悪をもよおす何かを回想したのだ。それはきっと同じ男の自分と触れあった夜の、イルカには許し難い行為の数々に違いなかった。 心ない軽口を叩いたイルカの同僚に憎悪を覚え、イルカ本人には、すまないと思った。それとは裏腹に、イルカに回想で吐き気をもたらすほど、あの身体に雄の肉欲を刻み込んだらしいことに、俄に征服欲を満たされたような愉悦を覚え、暫し昂揚した。 嘔吐がおさまってもイルカは手洗い場の鏡に写る自分を睨み付けていた。頬が青白い。その場にいたら声をかけ、あの頬を包み、背をさすり、抱き締めて労りたかった。だが彼はカカシの手をきっと拒むだろう。 さすがに憤っている様子の彼の感情までは覗けないが、自分がイルカの思考の中でどんなに罵声を浴びているか想像できた。 カカシは闇と同じ色のやるせなさを持て余し、また音もなく静かに印を組み、愛しい人の姿を遮断した。 |