| 秋晴れの空に赤蜻蛉の群れが飛ぶ。 風に乗せられて運ばれてくるのは田園の稲穂の匂いだ。早くも稲刈りの行われている場所があるのだろう。密生した稲が鎌で刈られる時に立ちのぼる、独特の香ばしさをイルカは受付所の窓辺で嗅いでいた。任務受付所に持ち込まれる依頼の中に、Dランクの農作業の手伝いが増え始めている。新米が米屋に積まれるのは間もなくだろう。 昼過ぎの暇な時間である。イルカと時間差でシフトに入ってきた同僚のコスギは、人が退いたのを見計らい、後ろのロッカー室で遅い昼飯を食いながら、今朝読み損なったという持参の新聞を読んでいた。小さな部屋は荷物置き場なので、テーブルや椅子など気の利いたものはなく、彼は床に直に座り込み、弁当は手に持ち、新聞は膝の横に広がっている。 「……なぁ、茶の国で十日以上の集中豪雨だってさ」 コスギの声かけに、イルカは横長い机の定位置を通り過ぎ、開きっぱなしの引き戸の敷居を跨ぐ。しゃがみ込んでどれ、と覗き込む紙面に、言われた通りの見出しがあった。 「……茶の国、か」 カカシが先月いっぱい任務に赴いていた国である。 カカシの顔を思い浮かべた途端、イルカの嗅覚は楽しんでいた秋の香りを遮断した。気の毒に、と呟きながら、見出しの下の記事の詳細を辿れずにいた。 「茶の国とうちは、わりと懇意だろう。任務依頼くるだろうな。復興作業とかのさ……」 秋口の農繁期なのに、里外に下忍達の人数を割かれるだろうとコスギが予想する。イルカは同意の頷きを返す。 「三代目が好きだったな、茶の国の新茶」 呟くと、コスギはそうだったなぁと笑う。 「あの方は茶の煎れ方もうるさかったよな。俺さ、煎れてくれって言われて逃げたことあるよ。まずいって言われるのがいやでさー」 イルカと同じく内勤で、事務職の長い彼は懐かしげに眼を細める。イルカは相槌を打ったが、おまえは巧いって言われたじゃねぇかと返された。 「そうだっけ?」 「そうだったよ。三代目は葉っぱの蒸らし方とか細かい拘りあっただろう。おまえ巧かったんだよ。そういや、いつも市場で出回るよりうんと早く、執務室に茶の国の新茶がちゃっかりあったよな。あれ誰かに現地で買ってきてもらってたんだろうなー」 その個人的な使いをよく頼まれていた男を、イルカは一人だけなら知っている。カカシである。カカシが里長に物怖じせぬ分、老人も気易くカカシを扱っていたのだ。 もっとも、カカシに言わせるとそれは本当に気易いだけで、可愛がりようならイルカに対する方が格段に上だったらしい。眼をかけられているとか、贔屓されているとか、そんな風に妬まれ、嫌味や陰口を言う者がたまにいた。 カカシもその点では、自分には悪い意味で目をつけているのではという疑念が最初はあった。上忍が自分のような平の教員と、いちいちこまめに会話してくれたり、食事に誘ってくれたりすることが訝しかったからである。 カカシの恋情が明らかになった今では、妬みや僻みの方がまだましだったと思う。そういう者に対する対処なら心得ていた。むしろ得意である。悪口などひたすら無視して相手の飽きるまで言わせておけば良いのである。 カカシの本音の言葉が、耳を貸さずにいられる発言なら、どんなにか気が楽だったろうか。 三代目か、懐かしいなーと過去に思いを馳せながら、コスギは食いかけの弁当に箸を伸ばしていた。イルカと同じく独身の彼は、買ってきた市販の弁当のおかずの上で割り箸を彷徨わせる。 「あー、俺、これ苦手。油っこいのと皮がどうもなー。本日のスペシャル弁当で高かったのにはずれ……。おまえ食う?」 いつもより高かったという弁当のおかずにケチをつけつつ、イルカの目の前にヒョイと持ち上げて見せたのは、畜肉の加工品だった。 イルカは思わず口元を押さえた。肉色の棒状の食物があらぬものを連想させたからである。 塞いだ口内に酸味の混じる唾液が溜まる。冷や汗の細かな粒が全身に吹き出て脳貧血でも起こしかけたような目眩がした。 「あれ? おまえも嫌いだった?」 コスギが箸に挟んだ太い粗挽きソーセージをブラブラと揺らす。いや、とイルカは掌の内側で答えながらぐらつく上体をあげた。足底に力をいれ立ち上がる。 「わるい、俺、ちょっと……留守頼む」 「うわ、おまえ顔まっつぁお。なんだよ具合わりーのかよ」 「ちょっと、……吐き気が」 「吐き気?」 つわりじゃねーだろうな、とおどけたコスギには、とある上忍との仲があやしいとの指摘を一度されている。コスギとは受付所のシフトがよく組まれるので、幾度もカカシに誘われる現場を見られてきたのだ。食事の誘い、イコール、もしや付き合っているのかという発想にいく彼に対し、その時はもちろんただの友人だと否定したが、信じてくれたかどうかはわからなかった。他の者は考えもしないだろうことを考えたことと、他の者は口にしないことを聞かれたことで、コスギにはそういう面で不得手意識があった。 「馬鹿、言ってんなよ」 できるだけ明るく答えてみたものの、妊娠を持ち出し、冗談でもイルカに孕む役柄を与えた彼は、きっとそういうことを二人がしていて、イルカが抱かれる側と想定しているに違いなかった。 イルカは増した不快を堪えて歩き出す。 「医務室行くなら、着いてこうか?」 今度は本当に心配そうに問われて首を横に振る。 「平気だよ」 ロッカー室を出て、長い机を横にまわり、受付所の出口に向かう。ふらつく背にコスギの視線をずっと感じていたがもう構う余裕がなかった。ほとんどイルカは逃げ出すように受付所を出た。 不快な味覚がイルカの口内に広がっていた。抑えている手を離したらトイレに辿り着く前に吐瀉物を床に撒き散らしそうで印も組めず、術で転移もままならない。早足で廊下を進むほんの一、二分が泥沼を匍匐するより辛かった。 トイレの個室に飛び込み便器の蓋を開けた途端、逆流してきた胃液と食物残渣が噴き出した。 嘔吐に伴い胃粘膜と横隔膜が幾度も縮み、鳩尾は痙攣したような痛みを訴えた。 陶器に散り流水で洗われる汚物の渦を見下ろし、ますます口の中が苦い。それは胃酸のもたらす味ではなく、回想に寄る感触の復活だった。 早く口を濯ぎたい。個室の扉を押し、手洗い場の蛇口を捻る。両手で掬った水を口唇で吸いあげガブガブと口内を洗浄する。最初に流しに吐いた水は黄色く濁っていたが、二度、三度うがいを繰り返すと透明になり、口の中の酸味と苦みは薄らいだ。しかし口内に残る不快が消えることはなかった。 舌も頬の内側も、歯列さえ覚えているからだ。カカシの雄の感触を。 一度蘇ってしまった肉感は、何回口内を洗おうともいっこうに消えない。手洗い場に付いた鏡に顔色の優れぬ自分が映っている。白目だけ紅い。消化器の逆流の刺激で充血した眼が、発熱した病人のように虚ろに自分を見ていた。 水に濡れたままの唇に震えがくる。なんと悪質な術かと、イルカはカカシを唾棄せずにおれない。幻の世界の記憶が鮮明すぎる。あちらの自分は現実を都合のいいようにねじ曲げるくせに、現実の自分は術中にいる偽のイルカの言動も出来事も、全てありのままに記憶に刻み続けている。 皮肉だ、とイルカは思った。アレはイルカが避けてきたものだったのだ。 反った筋も、浮き出る静脈も、張りだした鰓のなにもかもがグロテスクでいやらしいから。自分の股に下がるのと、同じものだから。 忌み嫌い避けながら、ああして他人のものに触れてみたいと密かに切望していたのだ、自分は。 恋人だから触れられる。触れてもいい。カカシが自分を愛してくれなかったら、自分も彼に恋をせずにいたら、この快は得られなかったと――。 もう一人の自分は、転がり落ちてきた幸運をどこかで意識しながら、嬉々としてカカシを貪っていた。じわじわと溢れてきた粘液を舌で掬い、こんな味がするものなのだと雄の味覚を堪能し、芯のある弾力や猛々しい形や、獣の臭気を喜んで味わっていた。 イルカは思春期に疾うに自覚していたのだ。己の欲の在処は、女性よりも同じ雄の身体の方によりあることを。 恋愛感情以前に同性の肉体に興味がいくとは何事か。こんな不埒で邪な自分が、まともな恋などできるわけがなかったのだ。 そんな自分だから怖かった。異性にしろ、同性にしろ、他人と肌を合わせることが。 女性を抱こうとして抱けなかったなら、自分は異常者だ。男を抱いて、或いは抱かれて満足するようなことがあったらもう否定はできないのだ。 一般人にも忍の中にも、両刀や同性愛者がいるのは知っている。圧倒的に少ない異質の枠の中に。 常識外の枠内に括られる自分を、受け入れることはイルカには難しかった。同性愛に寛容な考えの者が皆無ではないのはわかっていても、多くの者は後ろ指をさすだろう。 指されてあの男は男の身体を好む変態だと囁かれるのは耐えられなかった。 イルカはよく器が大きいとか、心が広いとか、寛大さを評価される。他人の奇行や過ちを何処までも許せるのは、己の本性が世界で部類の少ない異種であることを誰よりも判っているからなのだ。 「俺は……きっと、許せない」 イルカは出しっ放しの水道水を睨みながら、許すことはできない、と独語した。 自分のドロドロした部分を暴いていくカカシの術が許せない。醜く卑しい本性を暴いていくだろうカカシを許せない。 晒したくない、見られたくもない。カカシにだけは。 (カカシさんに、……だけは?) 渦巻くままの葛藤の中で露わになった思いに身震いした。そんなことをなぜこんなに強く願うのか。 ずっと敬ってきた人に、幻滅されたくないのだろうか。 (自分は幻滅しても?) カカシが自分を愛しているなんて言うから悪い。カカシにそんな気持ちが微塵もなくて、性欲処理のために股を開けと命じてくれれば良かったのだ。そうしたら自分はいやいや服を脱ぎ、こんな下等な行為は望んでいないと口にできたし、きっと最中に感じたりしない。淫らに男とのセックスに溺れることはない。悪いのは強要する相手の方だという理由があれば、背徳感や罪悪に苛まれることもない。 「好きだなんて、言うからっ」 吐き捨てる。イルカは流したままの水音を虚ろに聞きながら、鏡を拳で打った。 自分はきっと彼以外の男でも、火を注がれば性欲を覚えるだろう。相手がはたけカカシであろうとなかろうと。 (……試してみようか) 自分がどれほど男同士のそれに興味と好奇と期待を抱いているか。 イルカは入り組んだ色街に点在する、男を買うための郭にいる自分を想像してみる。考えただけで脚が竦む。男に施され、絡み合い、快楽に溺れる自分の質を思い知るのが恐ろしい。そんな度胸があったなら、とっくにそれなりの店に出入りしていた。 (できない、くせに) 流水を両手で掬う。イルカは泣きそうになっている我ながら情けない顔を、乱暴にゴシゴシ洗った。 |