| 職員室には誰も残っていない。イルカは今日でなくてもいい書類と向き合っていた。このところアカデミーでの残業を連日強いている。やることがなければ人の仕事も請け負った。忙しく働いていれば暗い思考に落ち込まずに済むからだ。 イルカの右腿に刺し傷の痕がある。自分でつけた傷だ。研いだばかりのクナイの切れ味は良く、四頭筋をほんの三センチ弱だがすっぱり切断した。切り口がたった一本の線状であったので、塞がるまでは早かった。怪我を理由に翌日の体術の授業を同僚に替わってもらった他は、アカデミーの勤務に差し障りなかった程度、それくらいの傷である。 けれど、その傷痕はイルカには重くて硬いしこりとして残っていた。 怪我の原因は、はたけカカシ。木の葉の里の手練れの上忍で、かつてイルカが卒業させた子供達のスリーマンセルを担当していた。カカシが受け持つ中には、イルカの心配の種が二粒含まれていた。九尾の妖狐を封印されたうずまきナルトと、一夜にして一族が惨殺にあったうちはの生き残り、うちはサスケである。 イルカはその後の二人の様子が特に気になったため、カカシには他の上忍師よりも自分の方から声をかける回数が多かった。 カカシは顔を半分以上覆う妖しげな風体にも関わらず、気さくな人柄で、ビンゴブックに載るほどの業師のくせに、中忍のイルカを「先生」付けで呼んだ。どれだけ孤高の人かと緊張していたので拍子抜けした。子供達から聞かされる普段の様子はわりとだらしないところがあり、イルカの中忍仲間とあまり変わらぬようだった。 そのうちアカデミーの外でも二人きりで会うようになった。多くはカカシの方から誘ってきたのである。イルカは子供達の近況が聞きたかったので、よほどの用事がなければ断らずにいた。子供等のことは抜きにしても、カカシは知識人で何を話題にしても楽しい時間がもてた。 七班の解散からあとも、カカシとの交流は続き、階級は異なれど良い友人と感じていた。 イルカの側からしてみれば――。 カカシの方は違っていたらしい。あれは忘れもしない今年の春、イルカの生まれた日の夜だ。誕生日の祝いにカカシに食事を奢ってもらい、その帰り道、ずっと愛していたと告げられ、抱かせてくれと迫られた。 イルカは逃げた。 ――すみません。とても考えられません、そんなこと。 そう言って。 言葉通り、イルカは恋愛の対象にカカシを想定したことがない。一緒にいると楽しいし、尊敬もしていたし、友人であることを誇りに感じていても、カカシと同じ想いはない。 ――恋人いないんだから、俺と寝てみてもいいじゃないですか。 ――あなたは性欲処理だと思えばいい。一度試すのも駄目ですか? 戯れ言のよう口にしていても、カカシの本気は伝わってきた。眼が笑っていなかった。 イルカは応じなかった。気持ちも伴わぬのに身体を許したら、その後にいったいどんな関係になるというのだろう。カカシは本当にそれでいいと思っているのだろうか。 友人の域を超えぬ食事や酒の誘いを断わりきれず、遠征の土産にしては過剰な数々の贈り物を突き返すこともできず、深くは踏み込ませない距離を置いたまま夏を越した。 酒を酌み交わしながら、カカシは任務に赴いた先の海の話を聞かせてくれた。国外でもかなり遠方まで足を伸ばす男の話題は豊富で、イルカは見知らぬ土地の美しい風景に想いを馳せながら、その晩は少し自分の酒量を過った。 否、それはアルコールによる酔いとは種類の異なる酩酊感だった。知らぬ間に媚薬の類を盛られていたのだ。 心拍数があがり、全身の皮膚に細かな虫が這うような怖気。羽毛で産毛を撫でられているような錯覚。昂揚はイルカを脳髄まで灼きそうに熱かった。呼吸は乱れ、汗腺が開き、目の前にいる男に助けてくれと請いそうになった。意思とは裏腹に暴走する欲。腹の下からせり上がる抗いがたいものに、イルカは動揺しながら怒りを覚えた。 信頼していたから、友達付き合いは断たずにいた。口ではどう言おうとも、カカシは自分の意思を無視して横暴な手段に出ることはないと信じていた。 怒りよりも落胆が勝り、哀しくなった。 だから踏みとどまった。意地でも。 イルカは正気を取り戻すため自傷に及び、カカシの家を飛び出したのである。 半月前のことだ。 傷は癒えてもわだかりは残り、あれ以来、カカシとは口をきいていない。姿を見かけてもこちらから声はかけない、近付いてくれば避けようと決めた。 もっとも、カカシはイルカ以上に多忙な男だ。わざわざ避けずとも、会おうという努力をしなければなかなか向き合えない相手である。スリーマンセルを受け持っていた時期は、任務のランク上、日中の受付所で頻繁に顔を合わせたが、今は状況が違う。カカシは火影直々にAないしSランクの任務を任ぜられることが常。これまでいかにカカシが自分と会うために、時間を作る努力をしてきたかを知った。 気付けば清書のつもりであった書類に染みが落ちていた。筆からこぼれた余分な墨が黒々とした丸い汚点を作っている。書きかけの紙をグシャグシャと丸め、足元の屑籠に放った時である、後ろで人の気配がした。 「……イルカ先生か? また残業か?」 木訥とした穏やかな声色に椅子の背をまわすと、横にやや広い体躯の男が職員室の入り口に立っている。手には懐中電灯を持っていた。アカデミーの守衛を回り番で担う中忍の一人で、月輝という。名は輝かしいが、体型は太めで顔立ちが地味で、ぼんやりした印象の男だ。垂れた眉と、皺に間違えそうな細い眼で、短い首を傾げながらこちらを窺っている。年の頃は確か、イルカより十は上だ。 「まだかかるか」 「……もう終わりにします」 机の上を片付け始めると、べつに追い立ててるわけじゃないが、と呟く。 「いえ、本当にもう帰るところだったんです」 「そうかい。ならいいが。最近よく遅くまで働いている」 月輝は職員室にゆったりとした歩幅で入ってきた。イルカの後ろを通り、南側の窓に寄る。引いてあるカーテンを少しだけ開け、外をちらりと窺った。 「や、いい月だ」 独語した月輝は横歩きで、順に窓の施錠を確認していく。窓際の端から端まで鍵を確かめてしまうと、またイルカの後ろを通り部屋の出口へ向かう。 「……イルカ先生、痩せたか。あまり顔色がよくないな。疲れか? 早く帰ってゆっくり休むといい」 イルカは月輝のセリフに思わず掌を頬に当てる。確かに体重は少し減っていた。カカシとのことを考えると食欲が自然減退する。考えなければいいのに、意識の真ん中に陣取った存在は、脳の食欲中枢を狂わせているようだった。 出口の引き戸の手前でこちらを振り向いた月揮が、なにか悩み事か? と訊いてくる。 「当てよう。恋煩いだ」 イルカは首を振った。 「はずれですよ」 「……そうか。俺の勘は当たるんだけど」 恋ではないから厄介なのだ。いっそ自分がカカシに恋愛感情を持っていたら、その方が楽だったのではないかとさえ思う。それならカカシが告白してきた時点で、二人は幸せになれた。身体も自然に重ねていたに違いない。 「じゃ、灯りだけ頼む」 そう言って職員室から出た月輝が、今度は廊下の窓から外を眺め、再び、いい月だ、と独りごちる。 「……いい誕生日だ」 あとから言い足されたセリフに耳を疑う。鞄に私物を放り込んでいたイルカは月輝を振り返った。 (……誰の?) 問おうとした。だが守衛の姿はもう消えていた。月輝が言う誕生日は誰のものだったのか知れないが、イルカは同じ今日に生まれた人を一人 知っていた。 今日、九月十五日はカカシの誕生日だった。イルカは鞄を肩にかけて校門までのろのろと歩きながら、あんなことがなければ、自分が祝われたお返しに夕飯を御馳走する筈だったのに、と思う。 (でもあの人は、友人として奢るんじゃそんなに嬉しくもないんだろうけど) 二人きりの状況を作らずにホッとしたような気もするし、残念のような気もする。実は残念の部分が少しだけ多かった。礼をせずに義理を果せなかったという罪悪よりも、半月間、一言も言葉を交わさなかったこの日常の変化がわりと堪えているのかもしれない。 他に友達がいないわけではないが、職場の同僚とは呑むにしろ飯を食うにしろ、顔をつき合わせれば互いに愚痴が多くなり、同じようなことでどうどう巡りになるところで、めいっぱいは楽しめないのだ。 カカシと二人の時間を持つ前は、友人付き合いとはこういうものだと思っていた。愚痴を聞き合い、慰め合い、励まし合って会話は終わる。たまに人のうわさ話で盛り上がる。その中には色気のある話も含まれていて、誰と誰がつき合っているとか、あやしいとか、そこから発展してシモネタになり、悪酔いしてくると自分の体験談や自慢話になっていく。 そちらに話が傾くと、いくら呑んでいてもイルカの酔いは醒めた。同僚等を別世界の人のように遠く感じながら相槌だけ打つ。話題にのれないイルカは、おまえは奥手だからなぁとか、堅いからなぁとか、言われる。 それには少し誤解があった。説明するのは面倒なので、しない。 イルカにも欲望はある。人並みの頻度かわからぬが、自慰もする。ただそういう相手にいまだ巡り遭えていないだけなのだ。 機会がない。周りにいない。それとも自分が気付かぬだけなのか。 イルカの足が止まる。正門まであと数歩の位置で、下足が地面に張り付いた。 門柱の向こうに、やけに低い位置に輝く月が在る。守衛の月輝が評した通り見事な満月だ。まるまると太り、はちきれそうに明るい光りを煌々と放っていた。 その月の下に、やや猫背の男が立っている。 カカシだ。ススキの穂のようにフワリと逆立つ銀色の髪、斜めにかけた額当て。スラリと細めの肢体。両手をいつものようにポケットに突っ込んでいる。 「……こんばんは」 かけられた声に頭を下げた。イルカは挨拶以上の会話はしたくなく、視線を地面に落としてカカシの脇をオーバーに距離あけ通り過ぎようとした。 「イルカ先生、まだ怒ってますよね?」 イルカは応えなかった。イルカが抱えているのは怒りよりも落胆と哀しみなのだ。カカシはなぜそれがわからないのだろう。 それは、あれからなんの話もしていないからだろうに、イルカは自分の考えが伝わらぬのが、カカシのせいのような気になっていた。 イルカ先生、とまた呼ばれる。それでも足を止めなかった。すると、カカシは後ろから着いてくる。 イルカの胸は軋む。着いてこられても困る。今は時間が欲しいのだ。 どうしてカカシは待ってはくれないのか。考える余裕をもっとくれたなら……。 (変わるとは、限らないけど……) 媚薬を盛ったカカシも身勝手ならば、イルカも自分を勝手だと思う。カカシの想いを遂げさせぬのに中途半端に友達付き合いをしていた。恋愛感情がないと口にした時点で、今のように避ければよかったのだ。カカシとの交流が終るのを、イルカは明らかに惜しんだ。繋がりをきっぱり断たなかった自分は、卑怯なことをしようとしたカカシよりも、卑怯ではなかったろうか。 後悔してももう遅いことをウジウジと考えていると、カカシはふいとイルカの前に立ち塞がった。背後に迫ったのも追い越されたのもイルカは気付けなかった。ただもう突然に目の前にカカシがいた。 間近に立つカカシは満月を背負う。夜空に浮かぶ月光りは暴発しそうに膨らんでいる。眺めていると光りに吸い込まれて自分が無くなりそうだった。輝きが眼に痛い。 いいや、カカシの鋭い眼が、痛い。自分を請う男の真摯で強い、そして情欲に満ちた熱っぽい眼差しが。 反らそうとした視線を逸らすこともできずにイルカは喘いだ。まるで金縛りあったように、眼の玉どころか手足が動かない。逸らすことのできない視界の中で、カカシの両の手が何かの印を組んでいる。 「なにを……するんですかっ」 「イルカ先生の気持ちが愛に変わるなら。恋人同士になれるなら……」 カカシは素早く印を繰り返す。 「狸の話じゃ、死なねば解けない幻術らしいですよ。だからこの術にかかれば、否応なくあなたは俺の恋人だ。好きになる。愛してくれる。その命が尽きるまで」 「……なに、言って。……狸?」 「あなたの鉄のような理性も熔解する。今夜」 ――ねぇ、イルカ先生、好きですよ。 カカシの囁く声がイルカの耳に木霊する。 「……知ってます。俺もあなたが好きですよ、友人として。なのに、どうして、こんな卑怯なことをするんですか、いつかも薬なんか使って……愚かなことを」 「うん、本当に愚かですよ。でも愚か者もそれなりに考える。残る手段はなにか。どうすれば、イルカ先生の心を動かすことができるのか」 イルカの直立したまま硬直する肩から滑った荷物が、路上に転がった。カカシは木偶人形のように動けないイルカの代わりに、鞄を拾った。 「……返して、かば……」 「俺が持ちますよ」 カカシはイルカの荷物を肩に引っかけると、再び手っ甲の両手を胸の前で組んだ。今度はゆっくりと組み替えられる印の流れに、イルカの眼が吸い寄せられる。 目の前のカカシと月がだぶる。頭の中を呪詛が駆ける。脳内の記憶野が掻き混ぜられる。なにか自分でないものに埋め尽くされる。 瞼の裏まで月明かりが入り込み、そしてイルカは一瞬何も見えなくなった。 隣りを歩くカカシにイルカは問いかけた。 「今日は、カカシさんの誕生日なんですよね」 カカシが軽く顎を動かして肯定した。 「すみません、俺、なんの用意もなくて……」 覚えていたのにどうして自分は贈り物の一つも買わなかったのだろう。イルカが口惜しんでカカシを視ると、なにもいらないから、と穏やかに微笑まれたのでホッとした。 残業のせいで時間が深夜に近い。教科書と書類が詰め込まれた重い鞄をカカシが持ってくれている。自分も任務続きで疲れているだろうに、優しい人だと思う。 空にはとても大きな丸い月があり、太陽とは違い控えめな明かりが静かな街路に二人分の影を移していた。 カカシをイルカは横目で盗み視た。通った鼻筋と、銀色の髪が美しい。瞳の色は左右異なっているが、どちらもイルカは綺麗だなと思った。右は光りを反射すると鏡面のようで、プラチナをはめ込んだように眩しいし、左の仲間から受け継いだという写輪眼は、真っ赤な緋色が神秘的だ。 イルカはカカシが大好きだった。有り体に表現すれば、恋をしている。 同じ男の人を愛するようになるとは思わなかった。この間までは友人でいいと考えていたけれど、いつのまにかこの人を独りじめしたいと考えている。 カカシも自分を好きだと言った。愛していると言ってくれた。抱きたいとまで言われて怯んだことを、イルカは記憶野の一箇所で掘り返す。 何ヶ月も前のことだ。自分の誕生日の夜だった。 なぜ自分は拒んだのだろう。 その理由がわからない。好きな人に求められ、嬉しくないわけがない。 こんな年になるまで他人と肌を合わせた経験がないから、たぶん怖かったのだろう。女の人ともしたことがないから。まして男同士。手段はわかっているだけに、恐ろしかったのだろう。 だから半月前のあの夜も、カカシから逃げたのだろう。相当な意地を張った。媚薬の効力で、本当はカカシに縋り付きたかったのに。 拒み続けた臆病さを、カカシが呆れていないだろうかと心配だった。 不思議なことに今はちっとも怖いと感じていない。怖いどころか、むしろ触れて欲しい。抱いて欲しい。カカシのものにして欲しい。 イルカはこみ上げてきた欲求の強さを抑えきれずに、隣りにいるカカシの腕に手を伸ばし、触れた。 カカシは驚いたように眼を見開いた。 「今日のうちに、誕生日のうちに、俺をもらってください」 イルカは言ってしまってから心拍数があがり、心臓が口から飛び出そうだった。おそるおそるカカシの答えを待つ。 カカシは躊躇いがちに、微かな角度で頷いた。 |