| 男の腿から吹き出したものに、カカシは蒼然となり手を差し伸べた。突き立てられたクナイはよく手入れがされていて、肉から剥がそうとしたカカシの手も薄皮が切れた。 キリリと間近で音がした。彼の自傷に気を取られ屈んでいたカカシの頬に、ヒタリと生温かな水滴が落ちた。彼は正気に戻るため、自分の腿をクナイで差したばかりか、歯で下唇を噛み切ったのだ。そこから滴る血がカカシに落ちてきたのである。 ついさっきまで、眼差しに酒の酔いに加えある種の濁りを帯びていた彼の視線は、いつものように澄んでいた。まだ息の方は荒く乱れていたけれど、淫蕩な感覚に陥り誘惑に充血していた頬は、今は怒りによって紅潮している。 彼はクナイを引き抜いた傷痕に、自分で布を当てた。カカシが手伝おうとした手は、当然のように払われた。 「どうして、こんなこと、するんですか?」 出血の止まらぬ唇で、低い声音で問いかけられる。表情には、怒りよりも落胆の色が濃く見えていた。 カカシは言い訳をすべて呑み込んだ。腹の中では、あなたが好きだから、抱きたいから、自分のものにしたいから。幾らでも情熱は蜷局を巻いているのに、どれもこの男には通用しないものだったのだ。 受け入れられないやるせなさに、薬を用いた理由も語れば止め処もない。けれど、それを見破られ、あまつさえ、毅然とした理性で薬効をはね除けられた。 彼は本能の誘惑に駆られた筈だった。けれど、他でもない、自分を愛していると意思表示した相手の傍にいて、欲望に流されれば簡単に得られるだろう快楽に堕ちずに意思を貫いた。 つまり、それが答えなのだ。 「あなたがこんなことをするなんて、がっかりしました」 彼はそう言うと、カカシの部屋を出ていった。微かに傷つけた右脚を引きずりながら。 裏のある二人きりの酒宴のあとには、重い後悔が横たわる。カカシはその夜、一睡もできずに翌日からの任務に出かけねばならなかった。 ――そういや、今日は俺の誕生日だったよ。 刀についた血糊を傍らのススキで払い、カカシは呟いた。獣を模した面をつけた仕事仲間が殊更日付に拘ったので、思い出したのだ。 深夜をまわってすぐに仕事を終えたので、カカシの連れの男は上機嫌。皿のように丸いが満月にはあと少しの月を仰ぎ、狸の顔で空に嬉々とした吠え声をあげた。 とうぜん彼はカカシの誕生日などどうでもいい。へぇ、とは言ったが、何歳になったのかを訊ねることもない。他人の誕生日よりも、九月十五日に任務を終えた方が重要で、嬉しいのだ。今日に間に合えば、報酬は二倍。里が潤うばかりでなく、個人の手当てにも色がつく約束だった。 (……まぁね) 人肉を断ち骨を砕いたあとに、おめでとうもないだろう。それはいいが、息の絶えた忍の目玉が生気の名残りで濡れていた。 カシが転がる屍に屈んで死人の瞼を下ろしていたら、後ろで狸の男が首を傾げる。 「つまらぬことをする」 「……睨まれたまんまじゃ夢見悪いでしょ」 立ち上がったカカシは犬の面をつけている。忍び装束も暗殺特殊部隊のものだった。 「……かわったな、おまえ。暗部に戻らんのはそのせいか?」 狸が喉で笑う。受け持っていたスリーマンセルのチームが解散したせいか、古巣に戻ってこないかと、度々囁きに来るこの狸男は、カカシの昔なじみである。もちろん、暗部の。 「その……ってなに?」 聞き返すカカシに、狸男は獣の牙が欠けた、と言う。 「昔のおまえは、睨んでこようが死人の目玉なぞ気にもとめなかった」 そうだったろうか。 ――そうだったかもしれない。 カカシは死体に背を向け先に走り出す。狸はカカシの横に並ぶ。疾駆で切る空気の音に、紛れぬ程度の音量で嘲るように言う。 「ガキのお守りで附抜けたか? それとも女でもできたのか」 カカシは思わず面の下から面を睨む。 その反応は、図星と取られたらしい。事実、当たっている。 「大事なものは、もう作らないのじゃなかったか?」 「まだ、作ったわけじゃない」 カカシが勝手に請うているだけで、相手に請われているわけではなかった。 狸は笑った。 「まさか一方通行か。写輪眼のカカシが、たかが女一人をものにできんのか」 これは面白い、と馬鹿笑いされ、カカシは更にムッときた。通りすがりの藪の枝を千切って狸の面に投げつける。狸は鈎爪で払い、お返しに蛾の大群をカカシに向けてきた。 カカシは印を組む。蛾の大群は瞬時に消えた。幻覚だった。 走りながらの本気ではない争いは、カカシの飛び道具と、狸男の幻術のぶつけ合いになった。 いい加減、里に近付いてくると、子供騙しのような攻防はどちらともなくやめていた。 別れ際に幻術遣いの狸は言う。 「また一緒に組もう。おまえとだと、仕事が速い」 「……さぁね。そんなの五代目が決めることでしょ」 「そう拗ねるな。いいものを教えてやる。誕生日の祝いに」 狸男は機密事項のように、カカシに囁いた。 「次に月が昇れば満月だ。月を使え。俺のとっておきを教えてやる。コピーしていけよ」 女はいちころだ、という自信ありげな狸に、カカシはそれが女じゃないんだよ、と言い損なった。 ――幻術使いなどろくなもんじゃない。 その日が暮れてまた夜を迎えてからのことだった。幻術使いの美女を恋人に持つ、猿飛アスマが聞いたら蹴られそうな非難を、カカシは声にしていた。 カカシは狸男に教えてもらった術を愚かにも試してみた。無論、片思いをしている相手にだ。 その結果、思い人がカカシの部屋にいる。自分から着いてきた。カカシに抱かれる目的で。 秋の気配は確実で、外の気温は低いというのに、部屋の空気は熱くて濃密だった。室温をあげているのは、自分なのか、それとも愛しい人か。 そして重い。身体が余分な重力を負荷されたように僅かな動作も鈍くなる。 片恋の相手は、自ら服を脱ごうとしている。押しても引いても頑なにカカシを拒み、逃げ回っていた男が。 既に中忍ベストのファスナーはおりていた。腕が抜かれ、放られた場所は、一歩さがった位置にいるカカシの足元だった。 アンダーの薄生地がもちあがり、臍部が見えた。上へずれる黒い布の下から、滑らかな胸筋が、胸骨を挟んだ両側には、淡い褐色の粒が現れる。首からアンダーが抜けたら、しゃぶりつきたくなるようななだらかな曲線の鎖骨と、綺麗に筋繊維の張る二の腕が晒された。 節のある指が腰のベルトにかかる。カカシにとっては禁域にも等しかった場所が、いとも簡単に明かされようとしている。 あさましい唾液を飲み込み見守っていたら、男の手は、前を解くのがもどかしそうに指を滑らせる。すぐには外れないバックルの留め具を手で煩そうに払ったが、今度は前立てが容易に開かない。俯いていた面が少し上がり、カカシになにか言いたげに視線を寄越してくる。まるでカカシに手伝って欲しいというように、カカシを見つめてきながら苛々と腰の辺りを掻く。 カカシは手を貸さずに陶然と見守った。泣きそうに歪む目元に紅い色が差す。なんという顔をするのだろうか。 欲望を露わにした男の陰部が内側から持ち上がり、布地が張っている。だからひきつれ前がなかなか開けないのだ。 チリ、チリ、と微かな音をさせ、やっと下りきったファスナーの中から、隆起した膨らみがこぼれ出る。男の下着ならとうぜんあるべき排泄のための布地の割れ目から、亀頭がはみだしていた。 先の小さな出口が微かに濡れていた。その名の通り、誘うような湿りを帯びていた。 何の躊躇もなく床に落とされる下穿きを、カカシは呆気に取られて眺めている。 彼はこんなことはしない。これは、彼本来の姿ではない。 そう。これは幻術なのだから、現実を曲げている。 彼という人柄や性格や、気持ちをねじ曲げても、自分は彼を抱きたいか。 カカシは躊躇していた。数刻前の勢いは揺らいでいた。 自分のものにしたくて、姑息な手段を使ったくせに。 ろくでもない幻術。ろくでもない自分。 とても卑怯な手口だ。 だが、カカシの理性なぞ、狸の術を使ってみると決めた時から、壊れていたも同然だろう。 全裸の男がカカシのベッドに腰掛けた。一糸も纏わず隠さぬ場所で、頭をもたげたものが揺れた。立ち上がる陰茎に自ら伸びた手は、そこを隠そうとしているようにも見え、覆う指の隙間から蜜の滴る果実を見せ付けているようにも取れた。 腿は軽く開かれている。黒瞳はこちらを向き、恥じらうように伏せがちだったが、それは妖艶な誘いにも似てカカシを吸い寄せた。 幻でもいい。 いいはずはない。 葛藤に心では悲鳴をあげながら、身体は着衣のまま熱い裸体に体重を乗せて押し倒し、シーツの上に沈む。 抱きしめると腿の前面で布越しに男の滾った硬さが当たり、今度こそ完璧にカカシは己の理性の弾ける音を聞いたような気がした。 |