| カカシが月輝の部屋を訪れたのは、イルカが釈放された翌々日だった。戸を叩くと月輝は面倒くさそうな応えを寄越したが、五代目の使いと言うと、素早く中にひっぱられた。 部屋には万年床の布団が畳敷きにそのまま敷いてあり、まだ晩酌には早いたろうに、隅に押しやられた卓袱台には、残り少ない一升瓶と呑みかけの米酒を注いだ湯飲み茶碗があった。 退院早々、呑まなくてもと思うのだが、この狸は女遊びをしない代わりに惰眠と酒には溺れる口だった。報酬に喜ぶのも酒代が増えるのが嬉しいだけだ。私欲のない男だとは思う。特殊部隊にあるのが当たり前に似合うのは、人との柵を好まぬからだろう。カカシもかつては忍同士ならともかくとして、人間対人間の関わりなど煩わしく思う時期があった。大事な人は作らない。失えば失うだけ自分が刺し刻まれるよりもあれは痛いのだ。 この言いたいことを言いまくる男も、カカシには失えば痛い相手であった。腐れ縁も十年以上続けば情がわくという事実を教えてくれた例だった。しかも今回のイルカの件では、恩人と呼べないこともない。月輝の術は災いでもあったが、転機にもなった。 そんな月輝には言い難いことだったが、里長の命を伝えぬわけにはいかずにカカシは懐から一枚の紙切れと、それから一本の巻物を取り出した。 「はい、これ五代目からね」 ヒランと赤い縁取りの紙を卓袱台上に広げてみせる。巻物は敷きっぱなしの布団の上に胡坐をかいた月輝に直接手渡した。 月輝は蜜蝋で止められた巻紙の端を剥くと、徐に解く。ザラリとほぐれた和紙の内側に眼を走らせると、休暇は終ったな、と平たく他人事のように呟いた。それから卓袱台の上の紙切れに視線を移した。それは通称『赤紙』と呼ばれる書式で、いわゆる『始末書』だ。月輝は巻物を懐にしまうと、こちらについては不可解そうに口を尖らせる。赤紙から顔を背けてカカシに視線を流す。 「これはなんだ。俺は、なにもしてないぞ」 カカシは両肩を大袈裟に竦めて見せた。 「ばれたんだよ、五代目に、例の幻術」 「なに?」 月輝は意外そうに細い眼を剥いた。 「俺はもう書いた。イルカ先生に不埒な幻術かけた俺は謹慎一週間、そのあと任務のスケジュールみっちり。減俸は向こう三ヶ月。俺に術を伝授したあんたは共犯者、でも始末書だけでいいってさ」 カカシは両手首、両足首につけられた、髪のように細い金属の枷を月輝に示してみせた。それはイルカが綱手にはめられていたものとは事なり、あからさまな太さはないが、特殊部隊専用なだけに、より強力にチャクラを制御する。特殊部隊への謹慎処分、即ちそれは、自宅にこもれという意味はなく、体術以外の忍の技巧をすべて里長の手で封じるということだった。 カカシは今日から七日間、忍でありながら、忍術のどれ一つも使えないのだった。チャクラを練れない。使役を呼び出すこともできない。 よく見なければそこにあるのが不明なくらい細い枷を、月輝は身をのり出してジロジロ眺めてきた。 「……確かに、火影の枷だ」 確認するなりプハッ、と月輝は吹き出した。 「なにも笑うこたぁ、ないでしょ」 カカシは慰めてもらおうとは思っていなかったが、馬鹿にされるのはむ不本意でそっぽを向く。月輝は笑いを収めぬままカカシに聞いてくる。 「なぜばれた? あんな人好しの男でも、里長に泣きついたか」 カカシは月輝の前に腰をおろして、同じように胡坐をかいた。 「べつに泣きつきゃしなかったよ。あの人は誰にも助けてくれなんて言わなかった。俺が自首した」 カカシの言葉に狸男は笑いをおさめ、馬鹿かおまえ、と辛辣に返してくる。 「きさま、腑抜けた上に、頭まで悪くなったのか? なにも自分から悪戯の白状などすることはない。術がばれてもとぼけりゃよかった。足がついた時にはじめて慌てろよ」 「茶の国に行ってる間に、俺が申し開きしなくちゃなんない状況になってたんだよ」 カカシは事情を掻い摘み、何が起きたか狸男に説明した。もちろんイルカといたして思い切り楽しんでしまったことは、適当に省略した。 月輝は全部利き終えると、なんだそら、とよくわからん、を続けて言った。 「中忍先生は天然で男が好きなんだろう。それなのに、なぜおまえは突っぱねられるんだ?」 「俺だって、よくわかんないけどさ」 カカシにも説明が難しい。訊かれても、困る。 「要するに、男が好きで、好きものの自分が嫌で、おまえにそういうのが無縁の清くて優しい忍像を求めてるのか?」 「んー、あー、ま、だいたいそんなもん?」 だいたいではなく、きちんとわかっていることが、一つだけはある。 「俺、清いままなら、かなり特別視されてたみたいだよ」 月輝はワハハハと大口を開けて遠慮もなくまた笑う。おまえには無理だ、と自覚のあることを突かれてカカシの肩が落ちる。 「でもまぁ、俺の勘は外れてはいなかったな。憧憬は恋の類似系だ。おまえ、中忍先生の、憧れのカカシさんだったわけだ」 カカシの肩は更に落ちた。 「尊敬とか、憧れとかより、愛されたかったね」 「心が欲しかったんだろう。今からでもおまえが改心したらどうだ?」 そちらの方こそカカシには無理だ。起きてしまったことをなかったことにはできない。知ってしまったイルカの身体を忘れることもできない。 「いいんだよ、もう。あの人は俺の満月の夜だけの恋人になったんだから」 そんな形もありなのだ。一生通じそうにない真実のイルカの代わりに、カカシはせめて幻に酔おうと疾うに決めている。 「あんたは興味ないだろうけど、恋愛の形は人の数だけあるんだよ」 納得していない部分は大いにあれど、周りを見ればアスマと紅のような関係もあれば、シズネのようにただ相手の幸福を願う例もある。パックンに敵のような眼でイルカを語ると指摘され、テンゾウにこれは本当に恋なのかと問われたが、カカシは自分のこの執着が愛情ではないとは思わなかった。こんなに誰かに固執したことはない。これが自分にとって一生涯に一度の恋でないならば、この苦しさも独占欲もなんの理由があって生まれるというのか。 イルカが折れないから自分達は、アスマ達のように睦まじくはいかない。カカシは触れずに我慢することができないから、シズネのように距離を置いたまま見守り相手を案じるだけでは息が詰まる。 だから限られた時だけでもイルカを抱く。互いが生きている限り。 思いに耽るカカシに、月輝はボソリと言った。 「言っておくが、永遠じゃない」 「わかってる。幻術はどちらか死んだら終りでしょ。言い換えれば俺が死ぬまでは術は有効だ。イルカ先生の術者は俺なんだから……」 カカシは確認する。 「残念ながら、俺が死んでも解ける。あの術のチャクラは俺のものだからな」 カカシはかたまった。 「……それも、聞いてなかったよ」 不満をあらわにしてみせるカカシを他所に、月輝は立ち上がった。横に広めの体躯は身体に似合わぬ俊敏さで押入れ前に移動した。 「なんだ。わかっていて、あの時、俺を助けにきたのじゃなかったのか」 カカシは違う、と首を振る。 「私欲で動く余裕はなかったよ。殉死者を出したくなかったって言ったじゃないの」 「……そうか? ずいぶんとまぁ、優しい男になったもんだよおまえは」 言うと月輝は、スラリと開けた引き戸に上半身を突っ込むと、押入れの底板を跳ね上げる。取り出した装備一式は、言わずと知れた特殊部隊のものだ。 「カカシよ、ろくな誕生日の贈り物じゃなかったな。すまん」 カカシは眼を見張り、耳を疑った。驚いた。殊勝に月輝に謝られたのは初めてだったのだ。カカシはそれこそ狸に化かされたような気分で、月輝が任務の準備を整えるのをぼんやり視ていた。 「始末書は、書いてから出かける」 巻物と畳んだ赤紙を懐に入れ、月輝は薄く口元で笑い、けれど眼は笑っていなかった。しかし糸のように細い眼の奥の光は、決して鋭くはなく茫洋としている。辛いのかぼんやりしているのか判然としない表情だった。ただのほほんとした中年の酒豪の顔ではなくなっているのはわかる。読めない男の顔に、何もたばかれたくない思いでカカシは眼を凝らし、念を押す。 「ほんとに書いてよね。五代目にまた俺がどやされる」 「信用していないな」 「幻術の専門屋は信用しないことにしてる。赤紙だと言われてもあんたには枯葉を握らされそうだから」 月輝はフンという鼻息でカカシの嫌味に応え、そう拗ねるなと、いつかのように、若輩者を窘める年長者のような言い方をした。 「幻術はいいぞ。不可能を可能に変えるんだ」 「まがいものだらけのね」 「おまえに写させたあれは……恩返しとまではいかんが、ほんの礼のつもりだった」 「礼? なんの?」 月輝は長刀を手に取っている。半分だけ抜き、塗った油加減を確かめるように人差し指で刀剣の峰を撫でた。それから鍔に小気味良い音を与えて鞘に収め、背中にくくる。 「昔、おまえの親父の一太刀で生き延びた。おかげでこれまで好きな酒をたらふく呑めた」 カカシは初めて聞いた。 「礼なら、親父に言えば」 「あの世で会えるなら、そうする。だがたぶん俺が行くのはおまえの親父がいる善人向けの場所じゃない」 カカシは今生の別れのようなことを言う男に唖然とした、散らけたままの部屋から出て行こうとしている月輝の腕を掴んだ。引き止めるような仕草をされたことに驚いたのか、月輝の眼が糸より太くなる。 「月輝さん、俺の、月イチのお楽しみのために、長生きしてくんないかな」 返った言葉は、運が良ければな、という一言だけで、月輝は別れを惜しむ様子は微塵もない。巻くような風が一陣畳の上に起き、狸の面をつけた男はあっけなく消えていた。 取り残されたカカシは、主のいなくなった部屋の戸を押した。外は日が傾きかけて薄暗かった。 この長屋からアカデミーへと続くあぜ道は、賑やかな公共施設の裏手であるのに、舗装もされていず、あまり手入れも行き届いていないので、両脇のすっかり枯れたススキの茎や夏場より元気のない雑草が寂びれた雰囲気を漂わせていた。チャクラの練れないカカシは薄闇で視界が悪く、雑草や、起伏のある路面や散らけた石ころが煩わしかった。 幾らも歩かぬうちに、前方から、即ちアカデミーの方角から早足でこちらに向かってくる人物に気付いた。イルカだ。里内とはいえ、気配も隠さぬそのあけすけさと警戒心のなさを侮って、笑う。 彼と出会った頃のように。 此処に来た彼の目的は犬の眼で何度も見ていたから知っていた。月輝の留守を知って、またがっかりするだろう。チャクラ無しでも薄闇で、硬く結われた髪や黒々した瞳が判別できる距離まで近付くと、向こうもカカシの存在に気付いたようで、彼の脚はピタリと止まってしまった。 カカシはのろいが一定の歩調を乱さぬまま、立ち止まってしまったイルカの横を過ぎようとした。自分を拒む素のイルカに用はない。イルカもそれは同様だろう。身体まで欲しがる自分にイルカの好意はない。カカシが触れていいのは、幻だけなのだ。 すれ違う。 カカシの鼻腔をくすぐり煩悩をくすぐるイルカの体臭は一足毎に濃くなり、そしてすれ違ったその瞬間からまた一足毎に薄くなる。 イルカに思いがけず名を呼ばれて、カカシの脚が鈍る。突かれた様に振り向くと、イルカは泣きそうに眼を潤ませて自分を睨んでいる。 「……俺、諦めてませんから……、あんな幻術に縛られませんから」 言われた言葉に含まれる二つの意味を知りながら、カカシは聞こえぬふりで何も答えず再び足を動かしていた。 イルカの足音が遠くなる。 イルカは術を解くことを諦めていない。そして彼の慕う幻想のカカシを取り戻そうと足掻くのだ。 二人して、幻に拘り、囚われている。 カカシはその快さに身震いして、満月が近付く夜空を陶然と仰いだのだった。 (了) |