| ――早くユキを楽にしてやりな。 ツメは別れ際にそう付け足した。手の中で石造りの犬笛に体温を馴染ませながらカカシは事務所をあとにした。 桜の樹下ではキバがまた頭を下げてくる。ふと同じ年の旅の途中にある部下の少年を思う。今のイルカの事情を知ったら、憤り激昂するだろう。自分よりイルカの方により懐いていた彼ならば、イルカの今の状態をどうにもできないカカシを責めるか、或いは自分がイルカのために石を探すんだとやみくもに突っ走って行くにちがいない。 カカシはキバに首を僅かに垂れて応じてから鉄の門扉の外に出た。 日が完全に落ち、夜風は冬のように冷たく僅かに晒した皮膚を打つ。それでも春は近付いているのだろう。視力を凝らすと見えてくる。道端に吹き溜まった枯れた葉を、黄緑色の雑草が下から押し上げていた。あのギザギザの葉はタンポポだ。早春の草花達が花を咲かせるよりも早く、ユキが現れるあの夜はやってくる。 あと二日。たった二日でどれだけの量の石を集めることができるだろう。束の間途方に暮れる。しかしカカシはすぐに思い直した。なにも今年のユキの命日に間に合わずとも、ゆっくりやればいいではないか。散り散りになった欠片を集めるのは容易ではない。時も労力もかかって当然だ。任務の合間に細々と、地道に石を集めていけばよい。来年のユキの命日までになんとかすればよいのではないか。 だがそう考えながら、度々混濁するイルカの意識を慮る。イルカは自分の名を呼んでいるつもりでサクモと発音し、自分に縋りながら父を欲し、カカシを介し父を視ている。 昼間は大丈夫か。仕事に差し支えていないだろうか。いつまで彼は正気を保っているだろう。 不安はあった。 それでもユキがサクモの身代わりのカカシの身体を貪るのと同じ、自分もまたユキの身代わりのイルカの身体を掻き抱く。一時しのぎとわかっていても、カカシにはそれくらいのことしかできないからだ。 そして本当なら彼女自身に施さねばならないのに、カカシはイルカを介したユキに、即ちイルカ自身の身体に行為を施している矛盾。 快楽を得るのはユキなのに、実際にイルカの身体も感じて精を飛ばすから始末が悪い。姿がイルカであることは最初からわかりきっていたのに、カカシにはそれが困った問題になりつつあった。 イルカは父の名を狂おしく呼ぶ。触れて快楽を与えているのは、はたけカカシという生身の人間なのに。抱き締めているのはカカシなのに。 耐え難いとまでは思わぬが、歯がゆい感じが拭えない。 (なに考えてんだ、俺は) 心と身体はべつものだと割り切れていた筈なのに、イルカに割り切れと言い聞かせていたのに、自分こそ区別がつかなくなりそうな苦衷に陥っている。おかしな憤りに気が乱れがちだ。 (なに考えてんだ、俺は) 心と身体はべつものだと割り切れていた筈なのに、イルカに割り切れと言い聞かせていたのに、自分こそ区別がつかなくなりそうな苦衷に陥っている。おかしな憤りに気が乱れがちだ。 (……早く) こんな状態を長く続けていれば自分まで正気でいられない。 (もう……終らせたい) ユキを解放する。同時にイルカを楽にしてやれる。ユキの情念の影響など受けていない素のうみのイルカに戻してやれる。 さてユキの思いを取り去った彼は、どんな人だろう。容姿や性格はもちろんあのままだろうが、サクモにもカカシにも焦がれていない彼は、いったいどのようなうみのイルカなのか。 たとえば後のカカシとの付き合いに変化は出よう。カカシは元の穏やかな関係に戻りたいと考えていたが、それはおそらく無理なのだ。媚態を晒し男を誘った記憶がイルカに残れば、イルカは好きでもない相手に恥部や性欲を見せたことを悔やむだろう。最悪、最初の時のよう避けられそうだ。 ならばイルカにとり忌む記憶はカカシが消してしまえばいいのかもしれない。そうしたら楽しい友人関係は保たれる。 (友人か……) そうしていつかイルカが誰かと添うのを祝福する。相手は同僚の可愛らしいくの一かもしれないし、イルカを慕い続けた元女生徒かもしれない。長い間片恋に耐えてきたあの男かもしれない。 時に恋の情熱は、友情を蔑ろにしがちである。情の厚いイルカに限って友人を粗末にすることはないだろうが、それでも恋人を持てばそちらを優先させるだろう。まして家庭を持ったらカカシの誘いに何度に一度応じてくれるのか。 実につまらないことを考えた。いずれにせよ、イルカの平穏は訪れるのに。 イルカが幸せならそれでいいではないか。そのために自分は償いたいのではなかったか。 カカシは一つ深呼吸をした。口布越しに吸い込んだ空気には、微かに春の匂いが混在した。芽吹く寸前の木の芽。土を押し上げる植物達。耳を澄ませば眼を覚ましかけた爬虫類の蠢きが聞こえてくる。 凍えるような寒さはない。梅雨も炎天下もまだ先だ。犬達を走らせるのには悪くない季節だ。 カカシはおもむろにベストの忍具入れから小振りの巻物を手の中に落とした。 |