「獣の書」犬笛一冊目より抜粋



 この山に神域というものがあるならそこだった。神の領分というにはお粗末な、ただ木々を丸く伐採され、『犬神の祠』と言われる石が鎮座する場所だ。
 父の生前、カカシは度々参拝の目的ではなく、此処に来る羽目になった。山の天気は変わりやすく、数分前まで空が澄んでいても、山頂から流れてきた雲がにわか雨を予告無しに落とすからである。
 父一人なら雨など厭わなかっただろう。あれは幼いカカシを気遣っての避難であった。
 犬神の祠の背面には、雨宿りには格好な洞窟があった。カカシはそこにイルカを連れてきた。
――べつにこいつを気遣うわけじゃないが……。
 前置きして雨が降るぞ、とユキに声をかけると、
――では祠で雨宿りですね。
 あっさりとユキはカカシに此処に避難しようと言ってきた。祠の真向かい、百メートルは離れているが、そこには父の墓もある。躊躇わずにこの場所に足を運べるようになったのかと、カカシは首を傾げずにいられない。
 家も平気なのだから、墓も平気なのだろう。正常に戻ったユキの精神状態を喜ぶべきなのに、手放しで良かったと思えなかった。それも彼女が、以前の忍犬のままではないからだった。
 見上げる空の雲の層は厚そうだった。通り雨というわけにはいかないだろう。昨日まで雪を降らしていたというのに、鬱陶しい天候である。
「秘密基地みたいですねぇー」
 イルカは洞窟の内壁をグルグル何度も見渡した。そうしながら雨に少し濡れた髪と肩峰を、リュックから取り出したタオルでゴシゴシと拭う。汗をかけば水分と塩分の補給、と同じく、濡れたら拭く、は親の教えが行き届いているのだろう。もっとも、子に言葉通り従う素直さがなければ躾も教育も成されはしなかった。
「おまえは、馬鹿ではないようだから教えてやる。そこに見える石、あれが犬の神だ。犬と喋りたければお祈りでもして行けよ」
 カカシは洞窟のすぐ外にある。苔生した石を指さした。此方側から視るとお座りをした犬の後ろ姿に見える。石の上部には長年風雨に削られながらも、犬の耳のような突起が二つある。
「すごい。おっきな犬ですねー。ユキさんに、似てます」
 感嘆するイルカは、祈ってきますと洞窟から走り出しそうになり、その腕の片方をカカシは慌てて捕まえた。
「雨があがってからにしろよ」
 ひゃっと叫んだイルカは踏鞴を踏んだ。そして尻餅をついた。そんなに強く退いたつもりはないカカシは、イルカの上衣の裾をユキががっちり銜えているのに気付く。カカシが案じずとも、子守がついていたのだ。
「はい、雨があがってからにしますね」
 尻餅をついたままイルカはカカシを振り向いた。すべてに素直な反応を返す相手にカカシは困惑した。自分が欲していたのはまさに、このように逐一従順な応えを示す相手ではなかったか。
(……こいつが子犬なら)
 忍犬に育てたいところである。体力はあるし、鈍くもないし、馬鹿でもない。だがあいにくイルカは人間の子共であった。
 やがて雨足があがった空間で、カカシは洞窟から少し離れた父親の墓石に手を合わせに行った。
 それはなんですか? と問うイルカに、父親の墓だと説明した。真似事のように、隣りで両手を合わせるイルカに苦いものを感じていた。
(父さん、こいつが、いまのユキの御主人様だよ、笑えるよ)
 ユキがじっとそんなカカシと、墓石を眺めている。彼女の落ち着いた平易な様子に、なにを思うかカカシには想像しかねた。