「戌の書」…「犬笛」二冊目より抜粋



  鍵穴に鍵を差し込んだまま、イルカは思いの強さに我ながら驚き手が強ばった。
「イルカ先生? 大丈夫? 俺、開けましょうか?」
 背中越しに問われ、お願いしますと頷いた。カカシの手が後ろから伸びてきて、イルカの手の甲に触れた。長い指が、鍵を握ったままのイルカの指を覆うように重なった。 
 初めてカカシに手を握られた。握られたなどと感じるに自分にイルカは呆れながらも、血がみるみる顔に集まり、耳までカッと熱くなった。耳鳴りか頭痛が起きてもおかしくないくらい、こめかみのあたりでドクンドクンと動脈が拡張した。触れた場所から力を込められ、左側に半円が描かれる。鍵はまわったのに施錠が解ける音がイルカには聞こえなかった。
 イルカの手を、カカシがやんわり退かせる。関節の強張る指から鍵をゆっくり抜かれて、掌にそっと押しつけられる。金属の塊をイルカの指は力無く掴みそこねた。
 キンと硬い音がして、二人の間に落下した鍵をぼんやり見下ろした。カカシは、本当に大丈夫? と尋ねてきながら落ちた鍵を腰を屈めて拾い、それをイルカのウエストポーチの蓋の隙間に押し込んできた。それから惚けたように突っ立ったままのイルカを余所に、ドアノブを回してくれる。開いたドアの隙間は一人分。灯りのついていない室内の暗がりは、イルカには絶望の淵のように黒く見えた。
(おわって……いい)
 煮詰まるくらいなら、罵られて終いにしたい。
 カカシが三度、大丈夫かと問うてくる。
「ほら、しっかり。ちゃんと歩けます?」
 イルカは熱に浮かされるままカカシの上腕に両手を伸ばして首を横に振っていた。カカシの腕を掴む手に力を込め、カカシの力が自分だけをドアの内側に入れようと働くのを、拒むように縋った。
「……イルカ、先生?」
「歩けませんっ、だ、だから今日は……まだ帰らないでください」
 カカシの右眼が今日最大限に見開いたのを視た。だが相手の驚く様に反応できない。イルカは自分の思いをうち明けたい意気込みでいっぱいいっぱいだ。
 きっとみっともないことをしている。だが自制が効きそうにない。
 イルカはカカシを引き寄せた。カカシは驚いたままの顔で、ユラリと近付いた。更に強く腕を引く。ほんの二歩で、カカシごとイルカはドアの内側に移動することができてしまった。
 カカシの背後で軋んだ音がして、ドアが外界を遮った。道の外灯もほのかな月光も届かぬ暗闇で向かい合う。アパートの玄関は狭く、大人二人が下足のまま立ったらかなりきつかった。ほとんど抱き合うよう距離の近さで、イルカはグッと腹に力を入れた。そうしないと本当に立っているのが危うい。下肢が震える。頭がグラグラする。肩から通勤鞄が滑り落ちる。ズシリと自分の足の甲に圧迫と重力を感じたが、心の重みに比べれば屁でもなかった。
「……好きです」
 異様に喉の乾きを覚えながら発音した。カカシはいまだ見開いている眼のまま喫驚しているようだった。瞬きもせぬ右眼が闇の中で獣のそれのように光る。灰色の瞳は神秘的な反射を兼ねてイルカを凝視してきた。まるで硬質の石だ。常は優しい眼差しが、ぞっとするほど冷たく感じて一瞬だけ身震いした。怯む気持ちをこらえて返る言葉を待つが、依然としてカカシは口を噤んだままだった。
 イルカはすぐに沈黙に堪えられなくなった。
「……あの、あの、ご迷惑だということは承知です。でもどうしても言わずいられなくてっ、俺、カカシさんが誘ってくださると嬉しくて、会えないと情けないほど欝で病気みたいだし、カカシさんが傷のことで責任感じて優しくしてくれてるだけってわかってるのに、それだけだったら哀しくて、……いつもいつもカカシさんのことばっかり考えてて、自分でもおかしいってわかってるんです、同じ男の人なのに。でも、この気持ち、嘘じゃない。あなたが本当に好きなんです。すみません気色悪いですよね、ヤロウにこんな告白されたって……」
 イルカは声を出し続けることで、気まずい空気を払いたかった。応えなど最初からわかっていたのだからがっかりすることはない。カカシがなにも言わないのは、驚き、困っているせいなのだ。男が男に好きですと言われて嬉しいわけがない。
「わ……忘れてください、すみません俺……」 
 カカシはまだ黙ったままだ。答えに窮するなら、笑い飛ばして欲しかったのに、それもない。
「……なんで、黙ってるんですか? 笑ってもいいですから、なんか言ってくだ……」
 その時、隙間風が抜けていったような長い嘆息がイルカの言葉を遮った。
 次の瞬間、少しひんやりしたものが左側の頬に寄せれる。続いて右の頬にも。それがカカシの掌だと判り、イルカの方が今度は眼を丸く開ききった。
「……とうとう、言ってしまいましたね」
 カカシは何かを諦めたような、力無い声で言った。